首都圏の中では田舎の音大に進学した秀治朗は、長時間の通学が負担になるとの、医師のアドバイスから、大学近くのアパートに下宿し、一人暮しに慣れてからは、料理にも凝り始め、不安ながらも大学生活を送っていた。 新しい土地、新しい環境、慣れない事だらけだったが、秀治朗が専攻した作曲科には、気の合う友人が多く、気難しいイメージを持っていただけにホッとしていた。 勉学は、本当に大変だった。院も含めて、6年間…これほど勉学に励んだ事は無かったであろうし、この後にも体力的に厳しいかもしれな
冬来たりなば春遠からじ…と謳いし詩人あり。 洋の東西を問わず、昔からこう言う言葉は長く、忍耐する人々の支えの棒となっていた。 秀治朗にとっても、それは当てはまった。 いつまでも続くと思われた毒島から受けたイジメを全て記録した彼は、学校の理事会に訴え出た。また、友人に全てを打ち明けた。 怒髪天を突くが如く、友は怒り、ある者は共に涙し、またある者は秀治朗の肩を抱き、良く我慢した!と励ましてくれた。 後日、学校側が用意した弁護士2人による聞き取り調査が行われた。結果は毒島は
家庭で秀治朗を支えた物。それは、兄が一緒に見ようとテレビをつけてやっていたお笑いだった。 元々、秀治朗は小学生の頃、皆がめちゃイケを見てる頃から、ガキ使を見るほど、笑いを偏愛していた。 ちょうどこの時期、若手お笑い芸人ブームの時で、劇団ひとりや、マエケン、青木さやか等が、かなりエゲツない笑いを取りに行っていた時である。 一方、ベテランのダウンタウンは、ワールドダウンタウンと言う、後に伝説となる色んな意味でアウトな内容の笑いをやっていた。 極め付けは、ロバートホール(リチ
うつ病は心の風邪と、聞いた事がある人もおありではなかろうか。これは、誰でもなる可能性があると言う意味での啓蒙で成功を果たした。 しかし、一方で少し休めば治ると言う幻想さえ抱かせてしまった… 秀治朗はすぐに心療内科に行った。いくつか回り、3つ目でようやく良い医師に出会えた。 医師は、パニック時の呼吸法を教え、僅かばかりの弱い抗うつ剤を処方した。後にこの英断に秀治朗は深く感謝する事になる。 地獄は始まった。まず、秀治朗が感じた異変は胃の痛みと共に、味の変化だった。 新
胃の激痛や鈍痛は、繰り返し襲って来た。時には就寝時にそれは起こり、2時間以上唸っている日もあった。 秀治朗は、小さい頃からのかかりつけ医に直ぐに行った。胃薬を処方しながら、いつも大丈夫ですよ。と薬王菩薩よろしく、その笑顔で症状が和らぐほど信頼し切っている内科医が、真剣な顔をして、消化器内科、あるいは心療内科に行った方が良いですよ。と伝えて来た。 不可解に思いながら、秀治朗は消化器内科に訪れた。問診、触診をした後、胃カメラを飲む日付けの予約と、チェックシートが渡された。
実は、秀治朗は毒島からどの様なイジメを受けたのか、ほとんど思い出せなくなっている。高校時代や吹奏楽部の記憶の中でまるでそこだけミッシングリンクになっているのだ。 人は身を守るために、辛い記憶を消す事があると言う説を、はたと思いだす。 それでも、点と点の様にいくつかの事柄は覚えているのであった。 まず、執行部会議である。秀治朗は小中学と吹奏楽部の部長だった事もあり、一年時に当時の顧問と二、三年生によって、学年の執行部に決められていた。執行部会議で一年間の運営から具体的には
もうダメだ。 秀治朗は、高校への最寄りの、爪の山駅改札口を出るなりそう思った。 皮膚を裂くかの様な冬の風にも、額からは滝の様な汗。焦るなと思えば思うほど、呼吸は浅く早くなり、過呼吸になりそうになる。 暁秀治朗は私立中高一貫校の高校3年生。 大学にもエスカレーターで行くメンバーが多い中、いわゆる受験クラスでも無い秀治郎は、早々に関東の大学の、音楽部の作曲選考にAO入試と言う形で夏には合格を得ていた。 何故、そんな秀治朗が学校に行くのに、過呼吸を起こすのか…それは、2年前に起