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我が友の名は 「N」

 「虫も殺さぬ」という言い方がある。だいたいその後には悪口に近い言葉が並ぶ。虫も殺せないような人に見えたけれど実際はね…、みたいな。ではそんなにみんな虫を軽々と殺しているのかというと、少なくとも私の周辺に限って言えば、虫を殺せない方が圧倒的多数だ。都市部に住んでいれば遭遇する虫も、そう危険に直結するものでもないからというのもあろう。間接的に駆除するような、対象を目にすること無く遠ざける方法は盛んに取られているが、文字通り手を汚すようなやり方や、死骸を自身で片付けねばならぬような事態はなるべく避けたいというのが正直なところなのだ。私もそうだ。殺せない人は、おとなしい性質だからとか優しい人だから、ではなくて、虫が苦手であるが故に虫を殺せないという人が殆どなのだと思う。触るのも見るのも嫌だから、目の前に出現されても困るだけ。でも、スパーンとヤれるものならヤりたい、と思っているんだよね、みんな。

 と信じてきたけれど、ほんまもんが現れた。

 その人は、頭脳明晰、我慢強くて働き者、そしてヒトに厳しい。
 対して、虫にはたいそう優しい。どれくらい優しいかと言えば、自宅でかわいい息子氏や夫氏に「戻ってきちゃうんだからやめて!」と泣いて懇願されようとも、出没したゴキブリは無傷で捕まえた上で玄関から放逐してやるくらい、観音さま的に優しい。
 職場の裏口にムカデが出た時には、武器になる物を探す我々同僚を尻目に、柔らかいティッシュペーパー一枚だけ持って現場に向かおうとしたくらい、ナウシカ的に優しい。
 救うつもりだと察知した私は「いくらなんでも!ティッシュ一枚は無理だから!あなたが刺されるでしょ!」と、手近にあった固めの紙のチラシを数枚渡した。渡す方も渡す方だが、彼女も「そお? そうかもしれないわね…、じゃあ…」と受け取り、五分後に晴れ晴れと戻ってきて、「うまくいきました、チラシに乗せてやってそのまま隣(なぜか緑地がある)に運んだわ、ありがとう、固さがちょうど良くてやりやすかった」と嬉しそうだった。
 箒とちりとりを持って待機していた自分が恥ずかしい気持ちに一瞬だけなったけれど、お役に立てて良かった、とか言ってお茶を濁した。

 悪くない、むしろめっちゃいい人なのにやっかいな、そういうお人だ。

 先日のこと。職場に蚊が出た。ヘタレな私でも蚊ならヤれる。私は積極的に敵を追いデスク周りを徘徊。三回空振りして、パン!パン!パシーン!と音だけがむなしく響く。自分の手のひらが痛い~、どこ行ったー、くそー!などとぶつぶつ騒がしい私は、いつの間にか席に座る彼女のそばにいた。目が合うと、静かに教えてくれた。
 顔を右下に向けて、自身の肩先に視線をやりながら「ここに止まっています」と言う。あ、確かに彼女の制服の黒ジャケットの袖に蚊が止まっている。…止まっている! 蚊が! 止まってるんだよ!

 相手がナウシカだったと思い出したのは、彼女の腕ごとはっ倒した後。蚊は絶命して、ほとん…と床に落ちた。そのまま床の蚊の屍を挟んで対峙したナウシカと私。まずい。
 めっちゃ早口で「あー!ごめんなさい!ごめんごめんごめん!痛かった?もう考える暇もなく叩いちゃった!殺しちゃった!すみませんでした!地獄に落ちますね!しかたないです!諦めます!」。止まらなくなる、更に早口になる。
 「でも!でもさー、自分に止まってんだからさ!自分で叩いてよ頼むよ! 無益な殺生はいかんとは思ってるよワタシもさ、でもさーやっぱさ!蚊は感染症を媒介したりするわけじゃん? お願いお願い、許して、蚊はヤらせて!腕、痛かった? 痛かったネごめんねゴメンネごめんなさい!」。謝りながら自己主張。背後で上司が笑いをこらえている。
 わーわー言い続ける私に、ついに、「はい…分かりました…」と言いながらナウシカは席を立ち、手のひらにそっと蚊の亡骸を乗せて表へ出て行った。
 ざわつく周囲、ささやく声、「土へ還すんだね…」。靴で踏み潰そうと思っていた私は冷や汗をかく。やらんでよかった。
 彼女の後ろ姿に「あの子はただ私の腕に止まって休んでいただけなのに…」というロールテロップが流れて見えた。幻覚だ。

< 彼女の独白 >
( 二年前に聞いていた私たち )

わたしの母は、家の中で虫を見つけると、さっと紙に包んで捕まえて、丸めてねじり潰したその上で、庭に持って出て、火を付ける人でした。
どんなに助けて欲しいと頼んでも、やめてと泣いても、
決して頷いてはくれなくて、
必ず火を付けて生きたまま焼き殺したんです。
かわいそうで、かわいそうで、
反動でしょうか、わたしは虫を殺せなくなりました。

ああ、そうだった。
幼い姫さまが隠していた王蟲の幼虫が見つかってしまって…。
「やめて、やめて、殺さないで…」。松明を手にした人々の遠景。

(ぎえええぇえええぇえぇえぇぇぇーーーー)

 多分あと三ヶ月くらいすると、彼女の制服は青く染まるんだと思う。

 
 さて、こんな雑駁な私だけど、ナウちんには意外と仲良くしてもらってて、最近はなんだかちょっと優しくされてる感じがするほど。どうしてだろうと考えるに、あれですよね、ヒトデナシと認定されたんですよねワタシ。きっと虫けら扱いなわけよ。

 ヒトに厳しく虫に優しく。あなたは虫の友だちだもの。

 結果オーライ。





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