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すべって転んで、五十年、五十カラットの輝き

 19歳で脚本家デビューをして、今年で丸五十年になる。恐るべき数字だ。
本当に様々の脚本を書いて来た。けれど、有名ライターかと訊かれたら「いいえ」と答える。視聴者が知っているのは、大石静さんとか、くどかんさんとか、三谷幸喜さんだ。彼らは「超」のつく有名脚本家さんだ。野球選手もそうだろうが、九人のレギュラーに合わせて、ベンチ入りの選手、他に二軍の選手と、野球界には顔の知られていない多くの選手がいる。それと同じだと思って欲しい。わたしは時々、ピンチヒッターで打席に立つ選手くらい。業界の人にかろうじて名前を覚えてもらっていたライターというところだろうか。
 そんなライターだが、二軍の選手のように、試合に出ない時期が長かったというわけではない。しょっちゅう書いていた。だから、打席にはずっと立ち続けていた。だが、書いた作品があまり視聴率の取れる作品ではなかったということだ。だから代表作はと訊かれたら、この三つしかない。
「太陽にほえろ」「暴れん坊将軍」「世にも奇妙に物語」
つまり、その他、皆さんの知らない番組を、二百本から三百本の間、書いて来たというわけだ。ホームドラマ、刑事ドラマ、サスペンスドラマ、時代劇、SFなど。
 質より量と云う気はない。ただ、この五十年をテレビ界、映画界のはじにいて、さまざまなことを見聞きした身として語るわたしの物語が、少しでも面白いと思われたなら、今日からぼつぼつ書いていくこのエッセイをお読みいただきたい。
昔の栄光を語るつもりはないので。そこはご安心を。
すべった転んだの面白エッセイを目指しますので。

その1
(泣いた新米。今ならパワハラ?)

1977年、わたしは帯ドラマデビューをした。23歳の時である。
当時、TBSとフジテレビと中京放送には、お昼の三十分のドラマ枠があって、各局とも力を入れて制作していた。月曜から金曜日まで続くので「帯ドラマ」と呼んでいた。簡単なようで、大変なのは、そのボリュウムである。月曜から金曜日まで、三十分が五回。合わせて二時間半分のドラマが大体全八週続くのである。
 わたしが担当させてもらったのは、TBSの「愛の劇場」の枠で、メインのライターはOさんという女性だった。初めての打ち合わせで顔を合わせてのだが、ショートカットの爽やかな方だった。わたしはOさんと交代で三週目、六週目を担当することになった。まだ、ほとんど何の経験もない若造に任せて下さったのは、TBSの番組を主に制作していたD社の、竹で割ったような性格のYプロデューサーだった。

わたしはOさんの書かれた一週目のシナリオを読んで、ヒロインやその夫役の人、脇を固める人などのキャラクターをなぞるようにして、三週目分、五話分をとにかく書こうとした。今頃になって思うのだが、この時、台本の構成やキャラの立て方や、セリフの書き方などの勉強はそれほどしてなかったと思う。わたしのやり方は、ともかくぶつかって行く。そこからだった。

十日ほどかけて原稿用紙六十枚分×五回分。合計三百枚を仕上げた。ふーである。結構へろへろになっていたが、ともかく、狸穴にある制作会社へ出かけてた。白表紙に印刷された台本は結構な厚さだった。会議室には、Yプロデューサーの他に、長身の監督、助監督、TBSから来ているプロデューサーがいらした。東大出のインテリだと教えられた監督が、まず、のったりと発言された。
「ぼく、この人と組むの嫌だな」
 最初、ぽかんとしていたが、じき「この人」というのがわたしを示しているのに気づいた。鈍感なわたしでも、嫌な展開が待ち構えているのが察せられた。その後、始まった台本打ち合わせは、控えめに言っても惨憺たるものだった。構成もキャラクターもセリフも否定された。ほとんどが否定された。いいと言われたところは一か所もなかったと思う。ストーリーは簡単に云うと、新妻と姑の対立をコメディタッチで描いたものだった。わたしが心当たりのあるキャラクターは、お姑さん役だけだった。母方の祖母を思い描いてまるでOさんのタッチとは違っていたようだった。この箇所が違う。ここが面白くない。ここが退屈だ。わたしは散弾銃のように続く意見を必死でメモった。じっとうつむいてて、顔を上げた時には、みんな、退室していた。たった一人、残ったYプロデューサーが「直そう。一週間で。頼んだ」
 そう、爽やかにおっしゃった。
 わたしは制作会社を出て、六本木に向かう通りを歩いた。バス停に着く前に涙がぽろぽろこぼれた。
 ちなみにこのドラマのタイトルは「わたしは泣かない」だった。
                          つづく。

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