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ヒマラヤ大聖者が伝える心と心をつなぐ言葉

ヨグマタ相川圭子

P120〜

自分より成功している人など『隣の芝』が青く見えて心が穏やかになれません

質問

回答
人は、見えないものの価値が、なかなか分かりません。つい、目に見える目の前の豊かさの価値観にとらわれてしまいます。人がお金や物を豊かに持っていたり、優れていたりすると羨ましがり、本質に向かう事で将来損をしたらどうしようと疑ったりするのです。
たとえば、3人の前にお饅頭が1個あったとします。他の2人が何かに気を取られている間に、1人が取って食べてしまいました。
一見、食べた人が幸せになったように思います
食べられなかった人は損をした気になります
でも、真理から見たら、単にモノのやり取りでそこにカルマのやり取りがあり、何か人格が優れるわけではないのです。
早く取った人は一時幸せでしたが、その事で欲の方に傾き、執着ができて、大事な命に通じる未知の力への道を失ったのです
早く取らなきゃという焦りの心で生命エネルギーが消耗して、また食べたいなという欲につながって、せっかちになって消耗していくわけです。『早く取らなくちゃ』という心の執着でこれからも繰り返し、消耗し疲弊していくのです。
もう1人の人は、饅頭が欲しいなと心では思い、手にする事ができなかった無念さとお饅頭への執着があります。やはり真理からは遠くなっています。
最後に残った1人は行動を起こさず意識を覚醒させ、お饅頭がなくなる変化を気づきを持って見守り『今』にいたのです。 
それで欲を手放せた、真理に近づくことができたのです。命の働きが輝いて、本質に近くなったのです。次に饅頭が来ても『ま、いいか』
と思え、余裕ができ、内側から力が湧いてくるのです。それは饅頭を取った満足よりももっと大きな、心の欲望や迷いを超えて『今にいる』という安心感となります。
もちろんこれは饅頭だけでなはく、あらゆるものに置き換えられます。お金の場合でも同じです。誰かと比較して、一時自分の方が優れていると、ちょっとだけ安心しても、それはしょせん、饅頭を一個早く手に入れた喜びです。
また手に入れ損ねた人が、自分はダメだと苦しむ流れになるかもしれません。また饅頭といった小さなものでなく、大きなダイヤモンドを手に入れても変化するものです。変化して不安定なもの、それに囚われて損得に執着する思いの代償は未来にかけて大きく生命エネルギーを失っていくのです。〜続く


気づきが沢山起こる本でした📕
是非〜お読み下さい😊


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