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エルサルバドルのブケレ大統領が有能すぎるという話

 社会問題というのはなかなか変わらないものだ。多くは長期的なものだし、魔法の解決策などない。ましてや一個人の力ではどうしようもない。政治的なリーダーシップで解決できるのはせいぜい戦争くらいで、内政問題というのは解決を訴える候補者が現れても結局は現実の壁に阻まれて不発に終わることがほとんどだ。

 しかし、中には一人の統治者の政策が大当たりし、劇的に状況が改善されることがある。今回はそんな話だ。

 世界で最も治安の悪い国はどこだろうか。数年前までは中米のある国の名が挙がった。それは「エルサルバドル」である。この国の殺人事件発生率は世界一で、世界でも突出して高かった。

10万人当たりの殺人事件発生率
赤は20人以上を示す。

  これは2010年代の世界の殺人事件発生率を表した地図だ。治安の良い国と悪い国の概略が掴めるだろう。日本を含む東アジアや、ヨーロッパ諸国は治安が良い。意外だが、中東の国も治安が良いようだ。テロや戦争と普通の殺人事件は別ということか。一方で非常に治安が悪いのは中南米とアフリカ南部だ。深刻な所得格差が原因の一つだろう。

 その中でもエルサルバドルの辺りは世界最悪だった。10万人当たりの殺人事件発生数は50~100に達していた。50を越していた国は他にホンジュラスとベネズエラくらいしかなかった。リアル北斗の拳と言われる南アフリカが30、麻薬戦争で悪名高いメキシコが20、ロシアが10、先進国の中では突出して治安の悪いアメリカが5、主要先進国の多くは0.5~1、日本は0.2である。都市国家などを除けば日本は世界で最も治安が良い国だ。

2016年の国ごとの殺人事件発生率の比較
エルサルバドルは一位である

 エルサルバドルの殺人事件発生率は日本の200倍だ。これはとんでもない値だ。中米の場合、年間死亡者数は10万人辺り500人くらいだから、葬儀場に運ばれる人間の10%~20%が殺人事件で命を落としていることになる。これは治安が悪いというより紛争地帯である。

 エルサルバドルは中米に位置する貧しい国だ。一人当たりのGDPはアメリカの15%ほどで、メキシコと比べても半分以下だ。以前は中米の日本と呼ばれた時もあったが、その後の成長は停滞し、1980年から1992年まで悲惨な内戦を経験することになる。和平合意自体はうまく行き、旧政権と左翼ゲリラがそれぞれ二大政党となった。その代わり、エルサルバドルは世界最悪の犯罪大国となった。(しばしば内戦の後遺症が原因とも言われるが、隣接するホンジュラスも似たような治安なので、あまり関係はないと思う)

 そんなエルサルバドルの殺人事件発生率だが、現在はどのような値か。2023年時点でなんと10万人辺り2.4となる。なんと殺人事件は50分の1に減少し、もはやアメリカよりも治安が良い国になってしまっているのだ。大体カナダと同じくらいとなる。

 エルサルバドルの治安の向上は本当に劇的で、まるでマンガのようだ。このような事態が起きた最大の理由は2019年の選挙でナジブ・ブケレ大統領が当選したことにある。エルサルバドルでは内戦終結以来、旧政権と左翼ゲリラの流れをくむ二大政党が国政を動かしていたのだが、ブケレ大統領はどちらにも所属しないマージナルな候補者だった。

 ブケレ大統領は自らのことを「世界一クールな独裁者」と呼び、強権的な方法で国中にはびこっていたギャングを全て刑務所に収容した。これまで刑務所人口比率の一位はアメリカだったのだが、現在はエルサルバドルがトップだ。全人口の1%を超える人数が刑務所で暮らしていることになる。お陰でまるで戦国時代のようだったエルサルバドルは一気に安全になった。人権団体は冤罪などの可能性を批判しているが、治安問題が解決したことは間違いなく、国民は拍手喝采である。この辺りの事情はフィリピンによく似ている。いや、もしかしたら参考にしたのかもしれない。ブケレ大統領は熱狂的な支持者を生み、現在のエルサルバドルは一党独裁国家へと向かっているとの批判がある。ブケレ大統領は再選禁止規定を無視して次も出馬するとのことだ。

 エルサルバドルからわかる考察は何か。どうにも治安問題は国家が本気を出せばどうにかなってしまうものということが分かる。中南米はあれほど治安が悪いにもかかわらず、なぜか処罰が寛大なことが多い。死刑制度はないし、それどころか無期懲役すらない国がある。数百人を殺害したシリアルキラーが出所したという例もある。中南米の法と正義の感覚は日本人には理解しがたいだろうが、こんなものなのである。社会に根付いた不処罰の文化が治安の悪化を促しているのだろう。しかも、中南米では珍しいことではないが、この国でも刑務所は機能していなかった。堂々と囚人が売春婦を刑務所に連れ込み、囚人同士の殺人事件が国内の殺人件数の一定数を占めていた。このような状態は政治の怠慢としか言えないだろう。

 また、別の見方もできる。途上国の問題の一つに権威主義政権の存在が挙げられる。権威主義政権が問題のある統治をおこなうことで貧困と混乱がもたらされるというものだ。この見方が間違っているわけではないが、因果関係と相関関係は時に判別が難しいものだ。実は貧困と混乱に対処するために権威主義政権が誕生しているという要因も無視できないのではないか。エルサルバドルの例を見る通り、ガバナンスが不十分な発展途上国が治安の悪化を食い止めるのに有効な方策が強権統治だ。独裁だから貧しいのではなく、貧しいから独裁になると考えれば、独裁政権を倒しても国民の生活が良くならないという、おなじみの現象にも納得がいく。

 エルサルバドルは救世主の国という意味だ。この国で政権基盤を固めるブケレ大統領は果たして救世主と言えるのだろうか?その先行きはまだ誰にも分からない。



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