生命としての樹皮(前編)◆ 『指輪物語』 と水俣
この数年、ファンタジーの名作〈『指輪物語』と水俣 〉というテーマ* で文章を書いてみたい気持ちが高まっている。
ファンタジー文学に夢中になった高校時代、時を同じくして学校のフィールドワーク学習で水俣という世界と出会った。大人になった今も、私は相変わらず『指輪物語』や『ゲド戦記』に夢中で、そこに描かれている世界に水俣の記憶の断片を感じることがある。それらはいずれも〈自然としての人間〉だった時代を描き、近代化・工業化に伴い私たちが忘れてしまった記憶の古層を呼び起こしてくれる。
幾つか書いてみたいテーマはあるのだが、今回は前編で『指輪物語』における ❶指輪の意味と、❷指輪(金属)の素材についてテーマ** を置き、関連する書籍・講義を通じて学んだことをまとめた上で、後編で ①なぜ私がこのテーマに長年強い関心を持ってきたのかについて、②私自身が実際に水俣で制作しているジュエリー(樹皮)について触れていきたい。
*マテリアル・カルチャー、神話、文明論の文脈
**文化人類学・歴史学・考古学におけるマテリアル・カルチャー
はじめに
今回、鶴岡真弓先生の文献と講義から学んだことを中心に、指輪についてまとめた。参考にした文献等は文末にその詳細をまとめているが、特に参考にしたものは以下である。
・鶴岡真弓「『指輪物語』と『ベーオウルフ』の生命循環 −– 「金属文明」の始原へ」(ユリイカ「J・R・R・トールキン没後50年 −– 異世界ファンタジーの帰還」,青土社, 2023年)
・鶴岡真弓「『指輪物語』によむケルトとアングロ=サクソンの神話と考古学」(早稲田大学オープンカレッジ講義, 2024年)
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『指輪物語』のあらすじと設定
❶ 指輪の意味
『指輪物語』において、指輪はただの宝物ではないだろう。指輪は持ち主を選んでいるように思えるし、人間の弱い心を明らかにしてしまう。この黄金でできた指輪は一体、何なのだろう。
ⅰ. 死と再生 生命循環としての黄金の指輪
『指輪物語』には黄金の指輪が登場する。金という物質は、火によって溶けてはまた新たな形に固まる性質を持っている。変容し、再形成できる物質であるため、古来より魅惑的かつ限りなく魔術的なものとして捉えられてきた。それは「死から再生するもの」として永遠の生命の表象、あるいは循環する生命の表象として人間を魅了し、生者はもちろんのこと死者も金属を身につけ埋葬されるようになっていった*。
『指輪物語』はあらすじにも書いたように、指輪を〈滅びの山〉の溶鉱炉へ“返しにいく”物語である。それは指輪が溶鉱炉で溶けていくこと(=死)を引き受けた先に、新たなる生命がはじまることを示唆している。つまり指輪は生命の循環を意味し、指輪が破壊された先に次なる時代、それは人間の時代がはじまることを示唆している。
*素材(マテリアル)と人間の関係性は地理的なもの、文明によって変わってくると私は考えている。
ⅱ. 金属文明の始原へ
『指輪物語』の著者J・R・R・トールキン(以下トールキン)は、アングロ=サクソンの血を引くイギリス人であり、オックスフォード大学でアングロ=サクソン語の教授として教鞭を振るった。アングロ=サクソンはインド=ヨーロッパ語族に属し、彼らはその昔、金属文明を築いた民であった。金属という素材(マテリアル)と人間との関わりの始まりは、ヨーロッパから見たときにその東に位置するスキタイの国のあったユーラシア大陸に辿ることができる。しかし同時にそこは、ヨーロッパの脅威であるフン族がいた地域でもあった。
『指輪物語』では最後、エルフたちは船に乗り、西の国へと旅立つ。そこは永遠の命を持つものが住んでいることから不死の国と呼ばれ、日本でも西方浄土という言葉があるように、トールキンもまた西に黄泉の国を置いた。それに対し、東には荒んだ地〈モルドール〉があり、東夷がいる。〈モルドール〉には冥王サウロンが〈一つの指輪〉を鋳造したという火山の火口が置かれ、そこはフロドが指輪を返しにいく最終目的地でもある。
トールキンは『指輪物語』の創作を通じて「ヨーロッパとはなにか」という問いを胸に、その探求に彼のアイデンティティであるアングロ=サクソンを含む金属文明民インド=ヨーロッパ語族にまで視野を広げた。母国イギリスの神話をつくりたいというトールキンの夢は、結果としてイギリスに留まらず金属文明をともにした遥か東の国々、アジアにまで広がった。彼の物語はこれからの時代をつくっていく私たちに今一度、それぞれの文明の始まりに立ち返る大切さを教えてくれる。
❷ 指輪の素材
指輪の素材は黄金である。トールキンは植物やガラスといった他の素材は再誕生できない生命と考えていた(恐らく腐敗する物質だから)。❶ の i で黄金という物質の性質については粗方書いてしまったのだが、敢えて付け加えるとすれば黄金は腐食しない唯一の物質である点が挙げられる。
終わりに
『指輪物語』を初めて読んだ時、子どもながらに黄金の指輪の向こう側に何か不思議な世界が広がっているように感じた。それは他の宝物を巡る物語とは、決定的に何かが違っていた。以来、ずっと私は指輪の魔力に取り憑かれてきたわけだが、今回、指輪の素材である“黄金”に着眼し、学びを深めるための文献や講義に巡り会えたことは幸運であった。トールキンは指輪の素材である黄金という物質が持つ性質、それは火に溶けてはまた再形成する金属の特質をよく理解していた。故に、指輪を通じて人類の歴史(時代)の循環を描き出すことができたのだ。
また、黄金というマテリアルが人間の欲望を果てしなく引き出す性格を持っていることにもトールキンは気づいていた。『ホビットの冒険』には〈スマウグ〉という火竜が登場するが、まさに火竜は富を囲って独占する悪い君主を表している。『指輪物語』においても、なぜホビット族のフロドがその時代を終わらせるため、指輪を〈滅びの山〉に捨てにいくという壮大かつ困難なテーマと運命を請け負ったかといえば、彼らがごくごく平凡で大した欲を持っていなかったからである。
金属文明の始原である遥か東の地へトールキンはフロドたちに指輪を渡し、向かわせた。それはトールキン自身のアングロ=サクソンとしてのアイデンティティを辿る旅であり、その道は金属文明の祖、インド=ヨーロッパ語族へと伸びていった。彼が神話をつくる過程で行ったアイデンティティの解体と拡張は、現代の私たちにこそ求められていることのように思える。私は水俣というテーマと出会った16歳の頃から、心のどこか、とてもとても深いところで〈自然としての人間〉を思い出させてくれる〈現代の神話〉を待ち焦がれてきた。そして、なんとなくこの数年、その神話をつくってみたい、という気持ちが芽生えている。
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後編では、トールキンではなく、私自身の生命観や近代を経た社会における生命の表象について、水俣という土地と樹皮という素材を挙げて話すことに挑戦してみたいと思う。ヨーロッパ文明における黄金というマテリアルからみた人間と自然と生命観の関係史は、同時に、私たちアジア人に眠っている自然観に気づかせてくれる歴史でもある。
(レキシのナカにミライがアッタリして🛸🏜️🐎)
文献を読み込むのに少し時間が掛かったけれど、頭がとても整理されて、やっぱりまとめてよかった。
えろんえろんファーー!
(この記事は2024年4月18日に上げた記事に加筆したもの)
参考文献・講義
・ユリイカ「特集トールキン生誕百年 −– モダン・ファンタジーの王国」青土社, 1992年7月1日発行
・『J・R・R・トールキン : 自筆画とともにたどるその生涯と作品』キャサリン・マキルウェイン著・山本史郎 訳, 原書房, 2023年
・「『指輪物語』と『ベーオウルフ』の生命循環 −– 「金属文明」の始原へ」鶴岡真弓, ユリイカ「J・R・R・トールキン没後50年 −– 異世界ファンタジーの帰還」青土社, 2023年10月25日発行より
・「『指輪物語』によむケルトとアングロ=サクソンの神話と考古学」鶴岡真弓, 早稲田大学オープンカレッジ講義, 2024年
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