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no.6 水商売を卒業して焼肉屋をスタート

そぅ私はいつも遅すぎるデビュー。この時46歳

トータル約17年と長い間夜職に就いていたものの、自分のお店を持とうと思った事はない。

何故なら、基本お酒が得意でない私。
そして女の世界の大変さやイヤなところを沢山見て来たからだ。

仲良かったからお金を貸してあげたコが飛んでおきながら、新しいお店に引っ張ろうと営業かけた私のお客様にナント!私がお金を返してくれないと言っていたと聞いた時は、目がテン!
豆鉄砲くらった鳩状態だった・・・クルックーー🎵

また、突然部屋に遊びに来たコには、ゆっくりコーヒー飲んで待っててと入浴してる間に100万円以上の時計を盗まれた事もあった。
元来育ちのいいお気楽ドラ娘の私は、『生き馬の目を抜く』ではないがそんな世界で独立など考えられなかった。

ホステスはいつまでも出来ないと考えてた私は、建設中だった渋谷ヒカリエ横の古びたビルの2Fに焼肉屋を出す事にした。
3.11の東北大震災後、韓国人夫妻が放射能を恐れ国に帰った為に急に出た居抜き物件。初期費用を抑える事が出来たのはラッキーだった。

2011年6月《焼肉酒家 漠々》オープン㊗️
馴染みの顔が沢山お祝いに駆け付けてくれ、ここはクラブか?ドレス着てませんけど?と思うくらい見事に全テーブルでシャンパン!とても賑やかで華々しくもあり、焼肉屋としては異様な初日だった😂

バタバタと慌ただしい日が過ぎ一段落すると、このままではダメ。
一般のお客様で賑わうお店にしなくては・・・
そぅ思い、メニューを一新。ドンペリも外し近隣にチラシ配りも始めた。

と同時に利益が出なくなった。
のちに仕入先から聞いたのは、叙々苑と同じ肉をあちらはウチの約3倍の価格で提供しているという事実だった。
一方のウチはネームバリューもない大衆店。小さな店の仕入量は少ない故に仕入単価は割高。ホルモンはまだいいが、いいお肉ほど利益が出ない厳しい現実に加え、若い人がドリンクをあまり飲まなくなってる事も想定してた以上だった。

とはいえ何より一番の原因は私であった事は言うまでもない。
不動のNo.1ホステスではあったが、とかく店の経営に関してはズブの素人であった。
振り返ると何と無謀なチャレンジだった事か!
13年間トップだった中で自分を過信し甘く見ていたのだろう。
やはり、何事もプロにしっかり学ぶ事や自分がきちんと理解する事が大事だと痛感している。

経営なんて何も理解も勉強もしないまま店を出した私が、お給料が取れたのはホステス時代のお客様相手に商売した最初の半年だけ。

『一生独りで生きて行くってほどしっかりした設計ですね』と保険屋のオバちゃんに褒められた?呆れられた?くらい掛けてた保険を、1つ、2つと解約して行き、ロレックスにエルメスにヴィトンにブルガリ、カルティエ等など、ブランド品を次々と売払いしのいで行った。
まさかまさかの人生2度目のドン底到来!!
この時の私47歳。布団があった事だけは救いだった(笑)

そんなドン底の私のところにある日『名前貸して欲しい』と意味不明な連絡が来た。
その人は、私の1回目のドン底を招いた花咲会の仲間のAさんで懲りずにまたネットワークビジネスをしていた。
ネットワークビジネスに一度携わると、その繋がりの中で色んな会社の話しが転々とやって来るもので、Aさんも例外ではなかった。

週2くらいでウチのお店に食べに来てくれるイイお客様でもあったAさんにお役に立てるならと、それが法律違反である事など1ミリも考えずに即🆗した私。
それが、後々私の人生を大きく左右する事になるとは、この時は思いもしなかった。

そぅ、またもネットワークビジネスの世界に足を踏み入れる私が居たのだった・・・

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①プロローグ

②幼少期の私

③就職は📻️FM局

④ネットワークビジネスで💰️月収100万ゲット!からの奈落の底

⑤ネットワークビジネスでド貧乏、そこからの再起

2回目のネットワークビジネスで成功、そのキモとは?

⑧ネットワークビジネスの光と影

⑨これからの副業



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