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『君たちはどう生きるか』と言われても

私は宮崎作品が好きで、どれくらい好きかというと、卒論を「宮崎作品はなぜ面白いのか」というテーマで書こうとして失敗したくらいには好きだ。ジブリオタクなんだろうか。あんまり自分ではオタクという気がしない。オタクというと、押し作品は私の太陽! みたいなイメージがあるのだが、私にとっての宮崎作品はそんなものとは程遠い。むしろ、傘を持っていこうか迷う曇天みたいな印象がある。もし「あなたにとって宮崎作品とは?」と聞かれたら、「呪われた美しい夢」という答えが一番しっくり来る。

「呪われた美しい夢」という表現は(このままの表現じゃなかった気がするが)『風立ちぬ』に出てきた。戦闘機を形容していた言葉だ。鯖の骨が鯖の泳ぎを実現するための機能美を備えているように、戦闘機もまた独特の美しさをもつ。しかし、その戦闘機が果たすべき機能というのは、結局のところ「人を殺す」ことに他ならない。だから、戦闘機を作りたいという設計士の夢は美しくも呪われており、呪われてはいるが美しい――みたいな意味だったと思う。

そのモチーフは今作『君たちはどう生きるか』にも登場している。主人公・眞人の父で軍需工場を営む勝一が、部下を使って工場に置いておけなかった戦闘機のキャノピーを屋敷に運び込むシーン。生活空間に戦闘機の部品がわんさか持ち込まれたら嫌がってもいいと思うのだが、眞人はずらっと並べられたキャノピーを見て、ただ「美しい……」と声を上げる。一方で、眞人は単なる兵器の観賞者ではない。不快なアオサギを狩るため、タバコでお爺さんを買収して弓と矢を拵える作り手でもある。こうしてみると、『風立ちぬ』の二郎と眞人はずいぶん似ている。

「呪われた美しい夢」を抱える主人公は眞人と二郎だけではない。最初期の宮崎作品である『ナウシカ』のヒロインもそうだ……というか、キャノピーのシーンはナウシカが王蟲の抜け殻から目を採集するシーンのパロディだろう。軽くて丈夫な王蟲の目は戦闘機のキャノピーに持って来いなので、ナウシカはそれを刀で削り出そうとする。が、硬すぎてうまくいかない。そこで、ナウシカは弾丸の火薬を炸裂させるという工学的機転によって採集を成功させ、無邪気に大喜びする。ナウシカもまた、兵器の観賞者であると同時に、その製造に携わる工学者なのだ。このように、宮崎作品では美と死が隣り合わせなものとして描かれてきた。

こうした美と死の隣接性は、兵器というモチーフだけでなく、その表現形態であるアニメーションそれ自体にも見出せる。記憶を頼りに書くけれど、どこかで宮崎監督がこんなことを言っていた。「うちの子どもは、『トトロ』を観ている間だけは大人しい。よほどお気に入りみたいで、もう何十回も繰り返し観ているのに、飽きる様子がない」こんな手紙を貰うことがあるが、ちっとも嬉しくない。『トトロ』なんて一回観れば十分で、あとはそのまま山にでも遊びに行ってくれればいいのに。

『トトロ』といえば、日本の自然美を描いた代表的なアニメーション作品といっていいだろう。あれを観た子どもたちは、何気ない公園の小道も本当に異世界へ続いているような気がしてくる――この「気がしてくる」という点に皮肉がある。多くの子どもたちが、実際に外へ冒険に出かけるのではなくて、画面に映る想像の世界で満足してしまった。自分の作った作品が、子どもたちに活力を与えるどころか、むしろ何十時間も画面の前に縛り付けてその生命力を奪っている――そんな後悔と罪悪感が、さきほどのインタビューには滲んでいる。

今作でいえば、ワラワラがペリカンに食べられるシーンからそんな死の臭いがした。現実世界に生を受けるべく、ワラワラたちは螺旋を描きながら空を上っていく。その丸みは受精卵のようであり、螺旋状の光景はDNAを思わせる。しかし、すぐに、大半のワラワラたちは飛来したペリカンたちに食べられてしまう。そして、ペリカンたちもまた、ヒミの放つ炎に焼かれて死んでいった。老ペリカンの話を聞くと、ペリカンたちにも事情があるという。そもそも、ペリカンたちはワラワラを食べなければ生きていけず、その度火に巻かれ死んでいく。どんどん群れは弱体化し、若い世代は飛び方も分からなくなってきたという。

子どもが生まれなくなり、若者の手足は細り、老人たちは死んでいく。現実にも満ちているこの閉塞感が、ワラワラのシーンにはありありと描かれていた。アニメーションもこの流れを加速させる一因になっているという見方は、さきほどのインタビューを思い返せばそれほど無理筋ではないだろう。

『もののけ姫』にもこのモチーフは描かれていた。乙事主が、人間を滅ぼすべく猪たちを率いて進軍していくシーンだ。そこでも、乙事主は「群れはみな小さく馬鹿になってしまった」と嘆く。……こうしてみると、「最近の若者は」みたいなことをぐちぐちと、ずいぶん宮崎作品は説教っぽい。よく家族向けアニメの代名詞として定着したものだと思う。

……宮崎作品が好きだとか言って、さっきから悪口しか言ってない。「美しい」夢の話に移ろう。結果的に宮崎作品は子どもたちの生命力を奪ってきたかもしれないが、『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家じゃないんだから、何もそのために作られたというわけではない。もちろん、美しい映像表現によって観る人を喜ばせるために作られているのだ。その点で宮崎作品は、他の作品と比べてもアニメーションがもつ美しさを十全に発揮できていると私は思う。では、アニメーションの美しさとは何だろうか?

アニメーションの語源は、アニマルと同じアニマ(魂)らしい。要するに、「モノに命を吹き込む」ということだ。どうやってそんな御業を成し遂げるのかというと、1秒24コマのパラパラ漫画を連続再生することで、それらが一連の映像として動いているかのように観客に錯覚させている。要するに、アニメーションとは錯覚の束なのだ。

このことからも、アニメーションには呪いと美しさが同居していることが分かる。子どもを2時間も暗室にぶち込んで、錯覚を起こし続ける――しかも、それはフィクションの錯覚なので、二重の意味でリアルじゃない――装置としてみれば、なるほどアニメーションは呪いだろう。他方で、想像上の人やモノ、世界に命が吹き込まれ、生き生きと動き出す様は、まさに美しい夢という表現がぴったり来る。ある意味では真っ赤な嘘なのに、それが抗い難いリアリティをもって迫ってくる――これがアニメーションの美しさだ。

この点で、宮崎作品は他の監督作品やスタジオ作品と比べても群を抜いて美しい(もちろん、他にも好きな作品はたくさんあるけれど)。徒然なるままに、今作の美しかった・リアルだったシーンを書き連ねてみよう。まずは、冒頭の火事のシーン。周囲の人たちの顔が灰色にぼやけ、抽象的な炎が迫り来る描写は、眞人の一人称的な恐怖に私たちを巻き込む。歩き方によるキャラクターの対比も見事だった。少年である眞人と身重な夏子とでは、歩き方が違う。そこに7人の小人ならぬ老婆が加わった行列が横長に描写される。この時点でキリコの背筋が、キャラが立っていて良い。歩き方によるキャラクターの対比は、サギ男とインコ大王が石を渡っていくシーンでも見られる。眞人が自分を石で打つシーンはとくに印象的だった。「え、死ぬんじゃね?」みたいな量の血が溢れ出てきて、思わずのけぞったのは私だけではないだろう。粘度の高い液体が溢れるシーンでいえば、ヒミが作ったトーストも、意味分かんない量のバターとジャムが塗られていて気持ち悪かった。ベタベタで、どう見てもバカな味がするのに、眞人はおいしそうに食べる。そのフィクショナルな感じも、老婆たちと一緒に食べていた質素でまずい食事とコントラストが効いていた。

こんな感じでとにかく画が上手いので、宮崎作品は身体的なリアリティをもって経験される。言ってしまえば、宮崎作品の美しさとは画の美しさなのだ。ただし、それは静画としての美しさではない。一時停止しながら観てみたりすると分かるのだけど、瞬間的な一枚一枚の画は意外と粗かったりする。しかし、それらがシーケンシャルに再生されることで、途端に命が吹き込まれ、生き生きと動き出すのだ。

そう考えると、「宮崎」作品が美しいという評価はアンフェアだったりする。今回、宮崎監督はかなり絵コンテに集中されたそうで、作画監督にはエヴァをやっていた本田雄さんが引っ張って来られた。火事のシーンは大平晋也さんが担当されたらしい。それから、『千と千尋』で宮崎監督と色々あった安藤雅治さんも参加されている。他にも、宮崎作品には幾人もの伝説的なアニメーターが携わってきた。『ラピュタ』で竜の巣や、親方と空賊の喧嘩を描いた金田伊功、「二三雲」と呼ばれる、分厚く豊かな雲を描く山本二三、動植物を得意とする二木真希子、ずっと色彩設計を担当してきた保田道世……皆さん亡くなられてしまった。宮崎作品の美しさは、宮崎監督一人に支えられているわけではない。宮崎作品というのは、あくまで宮崎監督の要素が一番多いミックスジュースみたいなもので、他の様々な果実も膨大に、しかし精密に組み合わされた混合物だと思った方がいい。そして、どの作品をとっても同じ要素から成るものは存在しない。

「宮崎作品の美しさとは画の美しさなのだ」と言ったが、もちろん画以外にも作品にリアリティを与える仕掛けは存在する。たとえば、声。私は勝一を演じた木村拓哉さんの演技が好きだ。俗っぽいというか、問題の理解ではなく解決にしか興味がないようなキャラクターなので、結局塔の世界には一切関わることができない。かといって無能というわけではなく、むしろ恐ろしくしごできだなー、という印象も強い。木村さんがキャスティングされたのは、この軽重併せ持つ感じが、かつて好演したハウルと共通していたからだろう。この味は木村さんでなければ出せなかったと思う。

音楽も凄い。ピアノの音三つ、それだけで現実と異界が交差する不気味が表現されていて、久石譲さんも不気味だった。エンドロール、バグパイプから「僕が生まれた日の空は、高く遠く晴れ渡っていた」へと続く米津玄師さんのイントロは涙腺を直撃する。時間と空間が引いたり寄ったりする超現実的な歌詞、作中のシーンや宮沢賢治からの引用が、本編の動揺をそのまま調べに変えて観客をエンディングへと連れ去っていく。『千と千尋』の終わりを思い出した。

……今度は褒め過ぎた気がする。映画館は、美術館でもコンサートホールでもない。画や音がリアルなだけで「宮崎作品は美しい」とか言うのは、まさにオタク全開という感じがして自分でも嫌だ。今作に対して「何やってんのかよく分からなかった」という声がネット上に多いことは承知している。アニメーションは画と音だけでなく、物語も楽しむものだ。そこにもリアリティはあったと言えるだろうか?

たしかに、今作のプロットにはだいぶ無理がある。なんで眞人はいきなり自分を石で打ったのか? アオサギが眞人を塔にいざなう理由は? 積み石って何? 全部説明されない。この、点と点を線で結ばず、ただスクリーン上にぶちまけるというプレゼンテーションはたしかに観にくい=醜い。考えてみれば、これは不思議な醜さだ。相手は『ラピュタ』だの『魔女宅』だのを作ってきた宮崎監督である。エンタメに向き合い続けてきた巨匠が、何年も絵コンテに集中して、なぜこんなことになってしまったのだろう?

真相は、宮崎監督に聞かないと分からない……というか、聞いても分からないだろう。人は嘘を吐くものだし、そもそも宮崎作品の〈作者〉を宮崎監督一個人と考えるのはおかしな話だ。でも、色々な情報を集めることでましな仮説を立てることはできる。たとえば、元ネタ小説とされる『失われたものたちの本』を読んでみるとか。

『失われたものたちの本』は、二次大戦下のイギリスを舞台とした小説だ。母親を亡くしたデイヴィッドは、父の再婚相手であり、その子どもを身籠ったローズをどうしても受け入れることができない。やがてデイヴィッドは、ねじくれ男とよばれる謎の人物に導かれて異世界へと迷い込む――『君たちはどう生きるか』と丸被りだ。本作の題名はもちろん吉野源三郎の同名小説から来ているわけだけど、プロット的にはむしろ盗作レベルでこっちに似ている。

というわけで、『失われたものたちの本』を補助線にすれば、いくつかの点と点の間に線を結ぶことができる。なるほど、「キリコ」は「木こり」ポジで、「大叔父」は「王様」なんだな、とか。そうすると、次の疑問が湧く。なぜ宮崎監督は、『失われたものたちの本』の設定だけ残して、プロットは捨ててしまったのだろう? これまた答えようのない謎だけれど、今作が『失われたものたちの本』の影響を受けていることは間違いなさそうなので、やはりヒントはこの小説の中にありそうだ。もう少し、『失われたものたちの本』について考えてみる。

この小説は、物語の中で物語が語られるという入れ子構造になっているところがおもしろい。たとえば、デイヴィッドは『赤ずきん』『ヘンゼルとグレーテル』『白雪姫』『眠れる森の美女』『美女と野獣』などのパロディになっている物語に触れながら、冒険を進めていく。一番分かりやすいのは狩人のエピソードだろう。道中、デイヴィッドは子ども狩りが趣味の狩人に殺されかける。しかし、デイヴィッドは木こりが語ってくれた物語――これが『ヘンゼルとグレーテル』のパロディになっている――にヒントを得て、狩人を返り討ちにする。こんな具合に、デイヴィッドは物語の力を借りながら、自らの物語を進めていくのだ。

『君たちはどう生きるか』は、『失われたものたちの本』の設定だけでなく、この入れ子構造も踏襲しているとみていいだろう。すでに指摘した通り、今作には『ナウシカ』や『もののけ姫』など、過去作のパロディっぽいシーンが多く見られる。他にも、たとえば矢を受けたサギ男が必死に飛ぼうとするシーンは『千と千尋』でネズミとハエみたいなやつが飛ぶシーンに似てるし、時空間を越えて移動する扉は『ハウル』にも登場した。過去作以外から借用された物語もあるだろう。序盤の、死者たちの船が漂う海、あれは『紅の豚』の飛行機の墓場を彷彿とさせるが、その元ネタはロアルド・ダール『飛行士たちの話』の中にある短編だ。終盤の海が割れるシーン、あれは(物語と言っていいのか分かんないけど)聖書が元になっていると言っていいだろう。このように、目の前の物語がそれまでの物語に支えられているという構造は両者に共通している。

こうして、お話の筋としての物語ではなく、もう少しメタな構造に注目すると、『失われたものたちの本』はさらに味わい深い。冒険を終えて現実世界に戻り、大人になったデイヴィッドは自身の冒険譚を『失われたものたちの本』という(タイトルと同名の)小説にする。そして、自分の屋敷を訪ねて来る子どもたちと次のような話をするのだった。

物語や本の話をして聞かせると、物語が語られたがっており、本は読まれたがっているのだと説明してあげました。そして、人生を歩んでゆくのに必要なことや、彼が本の中に書いた国のことや、子供たちが空想の中に築くあらゆる国や世界のことは、何もかも本の中に書かれているのだよと教えてあげるのでした。

『失われたものたちの本』p. 429

つまり、『失われたものたちの本』は物語の物語なのだ。もちろんこれは、物語論の論文なのだ、という意味ではない。『失われたものたちの本』にはオリジナルの筋があって、母を失ったデイヴィッドが、ねじくれ男と対峙して帰ってくる、という立派な小説だ。ただし、その物語は『ヘンゼルとグレーテル』や『美女と野獣』といった過去の物語に支えられて成立している。そうして過去と現在、フィクションとリアルが混然一体となった物語が、デイヴィッドを経由して次代の子どもたちに受け継がれていく……という物語になっているのだ。これが『失われたものたちの本』の面白ポイントだろう。

そうすると、どうやら物語というものは、個々の作品の中にあるものではなくて、作品から独立して、あるいは作品にまたがって存在するものと考えた方が良さそうだ。もちろん、最終的には個別の作品として私たちの手に届くわけだから、そのバリエーションは無限といっていい。でも、その系譜を辿っていけば、少数のパターンに行き着くだろう。たとえば〈行って帰る〉物語、主人公が冒険に駆り立てられ、また日常に戻ってくる物語だ。『失われたものたちの本』はもちろん、『指輪物語』や『ナルニア国物語』、『千と千尋』もこのパターンに含まれるだろう。『君たちはどう生きるか』も。

だとすれば、今作に対する「何やってんのかよく分からなかった」という怒りも、少し違った風にみえてくる。実は私たちは、あの映画が何をやっていたのか、意外とよく分かっていたはずだ。母が死ぬ。悪そうなヤツが出てきて、異世界にいざなう。困難に直面しながら、何とか乗り越えていく。そして、最後には帰ってくる。『君たちはどう生きるか』自体は初見でも、そうした物語に私たちは何度も触れてきた。

たしかに、シーン間の繋がりは滅茶苦茶で、観ている私たちは何だか置いて行かれたような気持ちになる。それでも、目の前に展開されている御伽噺がまるっきり嘘とは思われない。ボタボタ溢れる血、異界を感じさせるピアノには、身体的なリアリティが伴う。過去作で観たことがあるようなモチーフが、シーンに説得力を加える。体では感じ取れるのに、頭では理解できないような情報の洪水。その不快感・苛立ちこそが「何やってんのかよく分からなかった」という怒りの正体ではないだろうか。おそらく私たちは、ただ「何やってんのかよく分からなかった」だけでは怒らない。その場合は退屈が勝つからだ。それでは済まされない、不気味なリアリティが今作にはあった気がするのだが、どうだろうか。

ようやく、「なぜ宮崎監督は、『失われたものたちの本』の設定だけ残して、プロットは捨ててしまったのだろう?」という疑問に答えられそうだ。たしかに、『君たちはどう生きるか』はシーン間の説明が削ぎ落とされていて、プロットを把握することが難しい。そうすることで、一体何が残るだろう? それは、のっぴきならない何かが進展しているという感じ、そのリアリティだ。「なぜかは知らないが、とにかく世界はこういう風に主人公を追い詰めるものなのだ」という、いま投影されている物語の裏にある物語。つまり、宮崎監督は物語ではなくて、〈物語の物語〉を描きたかったのではないだろうか。

ラストで、眞人は塔の世界から石を一つ持ち帰ってくる。このシーンも、〈向こうの世界〉から髪留めを持ち帰ってくる、『千と千尋』のラストを思わせる。ここで眞人は、そして映画館を出て行こうとする観客は、一体何を持ち帰ったのだろう。ある意味で、その答えはもはや明白だ。すなわち、それは物語、その断片だろう。しかし、結局それは何なのか。このような感想文では、それをこそ書くべきな気もするが、私には書けない。まだよく分かっていないからだ。何か、閉塞感に満ちたこの世界と向き合うヒントを教えてくれている気もする。大叔父の「殺し合い、奪い合う世界に戻るのか」という台詞、これも『失われたものたちの本』のパロディだ。

お前が必死に戻りたがっている世界の真実を教えてやる。あそこは、苦痛と苦悩と悲嘆の世界よ。……戦争は人間どもに、少しだけ正直になる口実を与えてくれたのさ、罰されることなく人殺しをするためのな。過去にも戦争なんぞ何度でもあったし、これから先も何度でも起こるだろう。そしてその間にも人間は争い合い、傷つけ合い、痛めつけ合い、裏切り合う。それこそ人間がずっと続けてきた所業だからだよ。

『失われたものたちの本』pp. 408-9

小説と映画で共通するのは、両方とも戦時下が舞台ということだ。この点は、今作の企画覚書でも明示されている。

戦時下を舞台にした映画。時代を先どりして、作りながら時代に追いつかれるのを覚悟してつくる映画。

「長編企画覚書――劇場長編を造るか?」

そして、はっきりと時代が追いついた今、悪意と共に生きていくにはどうすればいいのか、すなわち、君たちはどう生きるかという問いが、一つの石として手渡されたのかもしれない。きっとこの答えは、物語の一側面を捉えているだろう。しかし、そう言葉にした瞬間、ドロドロの血、ピアノの音、その他あまりに多くのイメージが零れ落ちていくのが分かる。どうにかそれらを捕まえたいのだが、いつまでもこの文章を書いているわけにもいかないので、一旦ここで終わりにする。もう少し考えてみたい。それこそが呪いだと、分かってはいるけれど。

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