境界線に立っていると知れるのは、結構しあわせなことなのかも。
来年から社会人になる、そんな学生と社会人の境界線に立っていた時期って、人生の中で見るとほんのわずかな時間です。
今、自分が境界線に立っていると知れるのは、
結構しあわせなことなのかもしれません。
そんなふうに感じたのは、ふらりさんの記事を読んだからでしょうか。
縁側でコーヒーを飲みながらおしゃべりをする、ふらりさんとお母さん。
今まで、母親からたくさんの言葉を、時間を、もらってきました。
これまで何かに迷ったときには、決まってお母さんに話しを聴いてもらったそう。
「だからこそ、これからは私のためじゃなく、自分のために時間を使ってほしい」
そんなことを考える、のどかな休日。ゆったりとした雰囲気と、鼻に抜けるように香るコーヒーがとても心地いいです。
そのふらりさんは、来年から社会人。
今までは学生で、来年からは社会人。
わたし自身は変わらないけれど、やっぱり境界線にいるような気がする。
ステキだなぁ、と思いました。
人生の中でほんの一瞬しかない、学生と社会人の境界線に立っている今、こんなふうに自分の想いを文章にして残せているのって、とても羨ましいです。
ぼくにも同じように、学生と社会人の境界線に立っている時期がありました。当時の思いを文章にしようと思えばきっと、何かしらは書けます。書けるんですが、それは後付けした感情のような気がしてしまいます。
やっぱりそのときだからこそ、表現できる何かがあると思うんです。コーヒーの香りを文章にするとき、あとあとネットで調べた表現で書くよりも、淹れたてのコーヒーの香りを嗅ぎながら書く方がみずみずしい文章になるみたいに。
それぞれに考えごとをしながら、ぼんやりと外を眺める母と娘。
ふらりさんの心にふと浮かんだのは、こんなステキな願いごとでした。
「わたしはさ、おかあが楽しく幸せであってほしいんよ」
文章を書くのが好きなぼくたちは、毎日、「あのとき感じた想いを文章にしてみよう」と、記憶を辿りながら言葉を紡ぎます。
でも、今しか書けない文章もあると思うんです。誰かの心を打つ文章は、テクニックだけじゃなく、いかに潤っているかも大切だと思うんです。
だからこそ、自分が境界線に立っていると知れるのは、文章を書くのが好きなぼくたちにとって、結構しあわせなことなのかもしれません。
来年から社会人。そんな今のふらりさんならではの文章に、胸があたたかくなりました。
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