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世界一周11日目log バンコク観光と精霊体験



11日目はバンコク周辺を少し観光することにした。

訪れたのは、涅槃仏で有名な「ワット・ポー」と、三島由紀夫の「暁の寺」のモデルになった「ワット・アルン」の2つ。
バンコク観光のテッパンとされる王宮も見たかったが、ひどく暑かったのと、ワクチン接種の翌日で体調が不安だったのでやめておいた。ワクチン接種のために来月にまたバンコクへ来るので無理はしない。


ホステルに引きこもっていたので、滞在11日目にして初めての観光だ。

ホステルやスネークファームへの移動中に、遠くから寺院は見かけたのだが、大きくて派手だな、という程度の印象で、そこまで興味を惹かれなかった。

しかし、近くで見てわかった。これはすごい。

ワット・ポー

ワット・ポーの尖塔

巨大な建造物は色鮮やかで繊細なモチーフによって全面見事に飾られていて、身飽きることがない。壁面の装飾は陶器で作ったものを埋め込んでいるようだ。
何千、何万……見当もつかないほどの数をあれだけの高さまでびっしりと。

壮観。

この言葉に尽きる。

巨大な涅槃仏


ワット・ポーの涅槃仏は巨大だった。
観光客が多く、混雑していて居心地のいい場所ではなかったが、足の裏の図面はいつまでも眺めていられた。
絵には虹色の光沢がある。貝殻みたいな色だなと思ったらなんと本当に貝殻を使用しているらしい。自然のものを使ってこれだけ繊細なものを作り上げているなんて。

仏様の宝具の一つに貝があったか。
日本で仏像といえば、木、石、金属のイメージしかないので不思議だったが、このように使われているのを見ると宝具に数えられるのも納得だ。


貝殻で作られた涅槃仏の足の裏


ワット・アルン

ワット・アルンは小船に乗って行ったのだが、船上から見える姿がなんともまあ素晴らしかった。(残念ながら、船が非常に揺れるので船上の写真は撮れなかった。)

訪れたのは昼過ぎだったが、眩しい光を受けて輝く姿には感嘆の声が漏れた。

輝くワット・アルン(暁の寺)


ところで、暁といえば夜明けのことだが、タイの観光サイトには夕暮れの景色が綺麗と紹介してあった。

きっと夜も眠れぬ人がこの寺を訪れ、朝焼けに照らされる美しい姿を見て心を晴らしたから「暁の寺」と呼ばれるのだろうに、要らぬ案内をするものだ、と不満に思ったが、名称は土地を見つけた時の時間帯に由来するそうだ。さいですか。


*

私はワット・アルンを舞台にしたという「暁の寺」を読んだことがない。
三島由紀夫作品は、高校生の頃に「金閣寺」を数ページ読んで断念した記憶がある。
この機会に読んでみようかと思ったが、あらすじを読むとやはり好みではない気配。仏教の教えを絡めた官能小説?ねじくれているなぁ。
だが、妙に理解できてしまう。

暁の寺は確かに美しい。けれども、日本人として馴染みのある仏教建築とはかけ離れたものだと感じる。
慎ましく、それでいて荘厳な、日本の寺院。
私は檀家でもなければ仏教徒でもないが、仏教の精神性を非常に高く評価しているし、どこかで心の拠り所にしている。

日本は北伝仏教だから、そもそもタイの南伝仏教とは異なるわけだが。源流により近い場所でこのように祀られているブッダを見ると、なんだか複雑な胸中になる。

もちろん、優劣をつけられるものではないことはわかっている。
この記事は特に、私の胸中の話であることを強調したい。

タイの寺院は、建築物としては、疑うことなく素晴らしいと思える。
だが、宗教的要素を加味した時には、自分の中の仏教に対する考え方とは異なっていると感じる。

仏教の基本理念は「執着しない」ことだと私は思っている。
だが、金と時間をかけて作り上げられた豪華絢爛な装飾は、まさしく誰かの執念ではないか。喜捨にしては、自我の強さを感じる。いや、もちろん歴史も知らずに表層だけを見て判断することはよろしくない。だが、明確に考え方の違いを感じる。

この違和感をどう解消すれば良いのだろうか?
案ずることなかれ、答えはすでに仏典の中にある。

仏典の古層である『スッタニパータ』には、ドグマに囚われ真理や教えを固定化したり教条化したりしてはいけないと述べられている。質素であれ、華美であれ、信念を固定化してはいけないのだ。

そして、有名な「筏のたとえ」がある。
仏道は、苦悩という激流を渡るための筏。向こう岸に渡ったのならば、その筏は捨てていけ。
つまり、ブッダは異なる教えを許容しているし、自分自身が今まで持っていた教えを捨てていくことさえ許している。
だからこそ仏教は、類を見ないほどの奥行きと広がりを持っている。

「そう、それが貴方の仏教なのですね。私とは異なりますが、尊重します」
言えることはこれだけだ。

割り切れないものを無理やりひとつにしようとするから、仏教に官能をとり混ぜるという歪んだ物語になるのだろう。
読んでから言いなさいという声が聞こえる。その通りです、すみません。


精霊(?)体験


ワット・アルンへの船が出ている船着場は木造で、今にも床が抜けそうなボロさだった。床板の隙間から見える川面がスリリングだし、船もかなり揺れる。
スリルの相乗効果でワット・アルンの感動もひとしおなのかもしれない。

ワット・ポーの観光を終えて、船着場へと移動している間、妙な小男がついてきた。肌は浅黒く、見た目からすると現地の人だと思う。

何が妙かというと、停車中のトゥクトゥクについている柵を掴んだと思えば、車体を揺らし、こちらを見てニヤリとする。
気づかないふりをしていると、今度は、露店の屋根から出ているミストや扇風機に駆け寄っては両手を伸ばし、変な動きをしてニヤリ。
船着場の建物を「ン!」と指差してニヤリ。
そのままずっとチラチラニヤニヤ見てきたが、船に乗る頃にはいなくなっていた。

何だったのだろう。観光客を狙う現地の人の話はタイに限らずよく聞くが、それにしてはやることが奇妙だった。

ま、ワット・ポーの精霊ということにしよう。そう言えば塔の壁面にあった像に似ていた気もするし。

塔の壁面の像


景色に感動した私を見て、不慣れな人間界に姿を現してくれたのだろう。ついでに現世のものに色々さわってみたのかな。遊べてよかったね。


ちなみにこの2つの観光地ではどこに行っても日本語が聞こえた。
初対面の若者たちが意気投合する、青春の一幕まで目にした。
「初海外で一人旅で…」「えー!すごい!」
こんな会話が聞こえた時は思わず「私もです」と身を乗り出しそうになったが、さすがにやめておいた。
異国感が台無しという声もあるかもしれないが、困った時には助け合える安心感があっていい。

今回の滞在で私が接した方々は皆、親切だったが、言語の面で少々苦労した。もちろんこれは完全に私の力不足のため。今回の滞在で宿泊したホステルは4つだが、どこも英語での対応が可となっていたし、コンビニでもそう。
しかし拙い英語でやりとりしても、冷たく接することなく微笑みながら対応してくれた。

タイは海外初心者なバックパッカーにとって、本当に「はじまりの場所」だと感じる。

皆ここを目指す訳だ。

ありがとう、バンコク。また1ヶ月後に来ます。

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