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母語にかじりつく

Indigenous Anthropology の教授は授業の80分間ずっと「語る」。モノローグを延々と垂れ流す。最初は好きだったけれど、人の話を聞かずに自分の言いたいことに全部引きつけていくのに気づいてからはげんなり気味。

でもたまにいいことを言う(ひどい)。はっとさせられる。

「私たちは母語を生まれたときから使うが、母語は自分よりもずっと歳を取った存在である。わたしたちは言語を通して外界を認識しているが、その言語というものは悠久の時をかけて他の人たちによって形作られてきたものだ。言語とは他者である。」

おお。


私は英語に2歳からぼちぼちと触れているが、この留学までずっと日本にしか住んだことがないいわゆる純ジャパで、英語は英語圏で暮らせるくらいには使えるけど、日本語が確固たる母語である。

1年モントリオールに住んで、ああ、私はここには住めないと思ってしまった。なぜ?まあ色々あるけど、言語って大きい。

やわっこい頭でたくさん聞いて、たくさん読んで、たくさんしゃべって、たくさん書いたことばのリズムが、質感が、勾配が、においが、私を支配している。うぶげの一本一本にまで染み渡っている。
別にどこにいたって日本語の情報は手に入るし、使い続けることはできる。でもそうじゃないんだ。日本語が養われてきたのと同じ場所で、日本語を使う人たちがことばを紡ぎ続ける空気の中で息をすることを私の身体が求めている。


おもしろい話①。アメリカ育ちで日本人の両親を持つ人と日本語でしゃべったことがある。その人の日本語が実に面白い。同い年なのに、40代と同じしゃべり方をする。彼女にとっての日本語の供給先はきっとほぼ親御さんしかなくて、ことばの化石を見た気分だった。

おもしろい話②。chewyという英語がある。噛み応えがあるとひとまず直訳できるが、ポジティブだったりネガティブだったりのニュアンスが絶妙に知らない子である。ガムはchewyであるのが普通。ロブスターがchewyだともっと身が柔らかい方が好ましい。まあわかる。「このパスタはchewyだ・・・失敗した・・・」これ言われてもどう調理してどうなったのかよくわからん。失敗なんか?おいしいよ?英語圏の人と食感すらちゃんと共有できない不思議さ。


話がずれたというか、この話をずれずにする自信はないが、とにかく私はたくさんの母語話者ー日本語に脳みそと身体を支配された人たちーに囲まれた生活しか想像できないと言うのが妥当だろうか。

ノンバーバルコミュニケーションはもちろん偉大で、それが私がこの地で音楽やダンスにはまっている理由だと思う。モントリオールのそれらの分野の華やぎはすごくて、それはいろんな人たちが間違いなくそこの部分でつながれるから、多様であればあるほど楽しいからだろう。そこにいる間だけ、私の憂いはどこかに出かけてゆく。

でもそんな世界を捉えて表現するのもやはりことばなんだ。憂いさん、おかえりなさい。


母語にかじりついて、生きていく。たぶん。


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