シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓訳『根をもつこと(下)』(岩波文庫、2010年)を読んで。

 ヴェイユの文章は、ニーチェの言葉を借りれば、血で書かれている。そのことを『根をもつこと』を読み進めていると強く実感する。
 『根をもつこと』は十全な仕方で発表されたものではないため、ヴェイユ自身による細かな学術的注が付けられていない。とはいえ、それを発表するために彼女に準備する時間が残されていたとしても、彼女がそれをしたかどうかはわからないであろう。というのも残された原稿がすでに自らの命を削るようにして書かれていることを感じさせるものだからである。
 ヴェイユの文章には多数の引用がある。それは教養ある人のそれというよりも、ヴェイユが常日頃触れていたものとの対話の痕跡なのだと思う。特に聖句に関しては原文のギリシア語に親しみ、記憶から引用しているのではないかと思われる個所もある。そのことは『イリアス』についても共通するかと思うが、読者に対しての参照指示というよりも、ヴェイユ自身の中で主題を導く言葉の数々が自らの内に響き渡っていたことの反映なのであろう。彼女はそれらのテクストを血肉としていたのである。対話の相手はホメロスや福音史家、そしてプラトンやアリストテレスは言うまでもなく、そこには鈴木大拙までも含まれているのである。そのことの具体的な痕跡を本書には見出すことができる。特に冨原訳の岩波文庫の下巻には人名索引が付されており、そこから原文のみならず訳者による詳細な注を調べることもできる。
 『根をもつこと』の下巻に含まれる第三部「根づき」は決して読みやすくはない。それはあたかも大作を描き上げようとした画家の折り重なるスケッチを眺めることに似ている。その一つひとつの省察に含まれている問いかけは、聖性への呼びかけであり、徳への呼びかけなのである。叙述は列挙というアリストテレス的であるものの、その精神はむしろプラトンに近い。読者は読み進めるにつれて『国家』における逆説を、あるいは『法律』における教育プログラムを思わせる、ヴェイユの突き詰めた思考に触れるであろう。逆説はともすれば受け入れがたいものであるかもしれない、しかし書いているその人が真剣なことはその筆致から伝わってくる。
 本書の解説の最後にアランのヴェイユ追悼の言葉が引かれている。第二次大戦という経験を経て生まれた思想家たるヴェイユに対して、第一次大戦を生きたアランがその弟子を先に見送っていたことに意表を突かれた。豊富な引用で叙述が進むヴェイユに対し、物事の局面を切り取り省察を加えるアラン、この二人は対照的ですらある。しかし本書において印象的だったのは、この論考自体が判断力を巡るものであり、行動を促すものであったことである。それはアランを師として仰ぐヴェイユの姿を彷彿とさせるものであり、図らずも未完の主著の最後にアランと向き合うヴェイユを見出したのであった。

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