山田邦男『フランクルとの〈対話〉』(春秋社、2013年)を読んで。

 本書『フランクルとの対話』は東日本大震災をきっかけに広く読まれるようになったフランクルの思想に焦点を当てた本である。その原型はNHKの「こころの時代」の番組で放映された内容なのだが、本文にも書かれているようにその時の問いかけを深める形で記されたものである。フランクルの著作では『夜と霧』が有名であり、池田香代子訳によって多くの人が手に取るようになり、評者も最初に通読したフランクルは池田訳の『新版 夜と霧』である。しかしフランクルはアウシュヴィッツの生還者としてだけでなく、精神医学者として生涯を生き、その著作は膨大にわたる。その著作の全体像については、諸富祥彦『フランクル心理学入門』や赤坂桃子訳『精神療法における意味の問題』、あるいは広岡義之訳『虚無感について』に付されたバティアーニの総論が手掛かりとなるであろう。
 本書はフランクルの著作を多数翻訳された訳者によるフランクル論だけあって、広く深くフランクルの著作が紹介されていることに特徴がある。山田氏の翻訳では『それでも人生にイエスと言う』が最も知られており、主著である『制約されざる人間』『苦悩する人間』や『人間とは何か』の翻訳も手掛けておられる。番組の中では『人間とは何か』を訳し切ったことに胸をなでおろしていた様子が印象的であった。翻訳者であるからこそ自らの内にフランクルの言葉を響かせ、今の時代を照らすような言葉の数々が紹介されていることがうかがえよう。
 本書において印象的なのは著者の長年にわたるフランクル読解の深まりが率直に語られていることである。その問いの深まりはフランクルが時代のニヒリズムとどのように対峙し、そのことを著者自身がフランクル読解を通して見出していったのかということにある。フランクルは晩年にかけて特定の宗教に救いを求める形ではなく普遍的な場を求めてニヒリズムと対峙していたことを著者は見出すのであるが、その過程でフランクル思想に対する著者の違和感が語られていたのもまた印象的である。そしてニヒリズムの克服ということに関して著者が見出した答えは、ニヒリズムが問題とならなくなる地平まで生きる意味の問いを深めることにあった。生きる意味と苦しみとの関わりを考える際に、ともすればそれはマゾヒズムなのではないかという問いが読者の頭をかすめるかもしれない。しかしそれはフランクル自身が明確に否定しているものであり、時代特有のフランクル読解の陥穽ともいうべきものへの配慮が問いへの答えという形で為されているのもまた本書の特徴と言えよう。
 本書の白眉は何といっても著者の膨大な翻訳を背景に為される西田哲学との対話であろう。先にも言及した『人間とは何か』でのバイザイン(もとに在ること)をめぐる洞察はフランクルの実存思想を最も特徴付けるものであり、単に生きる意味を説いただけではなく、一人一人があるがままに尊さを有することを証しする実存思想であることをあきらかにしているのである。
 ただ、本書には難点が一つある。それは著者の語りに「~ではないでしょうか」という問いかけが多いことである。これは著者が質問に対する答えとして熟慮の末に齎(もたら)されたであろう答えの数々を表しており、その問いかけは「私はこう思いますがいかがでしょうか」という肯定の意味の文章なのである。フランクルの著作に親しんだ読者であれば明確に著者の意図をくみ取れるとは思うが、それほど親しんでいない読者にとってはわかりにくいものとなっていることを懼れる。著者は控えめに、フランクルが書いていないことをところどころで書くことを明示しているが、その一つ一つは決してフランクル思想を損なうものではなく、より深い理解を読者に齎してくれるものであろう。


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