田中久文『九鬼周造』(講談社学術文庫、2022年)を読んで。

 本書は九鬼周造の主著を紐解きながら九鬼周造その人の思想の核心に触れる評伝である。若松英輔氏の『岡倉天心『茶の本』を読む』で本書が引かれていて、それ以来気になっていたのであるが、やっと講談社学術文庫で手に入るようになった。『「いき」の構造』で知られる九鬼周造の哲学は明晰な叙述で展開されるが、どことなく近寄りがたいところが否めない。しかし本書を通して九鬼周造その人の生涯の中で主著である『「いき」の構造』と『偶然性の問題』とがどのように記されたのかが生き生きと描かれ、生涯を貫くその哲学の核心が明かされるのである。
 まず印象的であったのは『「いき」の構造』そのものが西洋哲学の精緻な理解を土台として作り上げられた構造物として理解されていることである。ハイデガーの『存在と時間』の不安概念と突き合わせることで第一の主著の積極的な意味が浮かび上がるのである。何の解説もなしにいきなり『「いき」の構造』に取り組もうとする読者は偏頗な男性中心の考えを読み取ってしまうかもしれないが、本書の明快な補助線を通して、それ自体明晰な叙述とも指摘される『「いき」の構造』の意図が明らかにされるのである。意気地をめぐる意気の現象学には目を見張るものがあり、性差についてより省察を求められる今の私たちに問いかけるものがある。
 『「いき」の構造』で取り上げられた主題が文脈を変えて「日本的性格」で取り上げられる際に、前者で強調されていた意気の「張り」が姿を消し、後者において「諦念」が自然との結びつきで説かれていることに、自らの思想の高揚感と落胆とをその生涯に重ね合わせて読み解くこともできよう。だがそこに見られる思想的落胆がただの失望ではなく運命をめぐる洞察を経た九鬼の生涯の深まりと呼応することにも気づかされるのである。思想的営為そのものが如何に緊張をはらんだ繊細な統合の道行きであるかを思わされるのである。
 『「いき」の構造』に端を発し、『偶然性の問題』で深まりを見せ、最後の著作『文芸論』の自然へと考察を深めていく筆致は圧巻である。高揚感から落胆へと移ったかに見える九鬼の思考は、自然をめぐって深まりを見せていく。その様子を著者はゲーテの色彩論を傍証に詩歌論の読解を通して明らかにしている。永遠の今の現出を五七の音の連なりのソネットの内に見出させ、その詩歌の形に時を刻む形式を明らかにするのである。その復興を企図する九鬼の最後の著作は今を生きる私たちの生を豊かにし得る問いかけを含んでいると思う。
 著者のあとがきに述べられているように、自らの人生の危機を乗り越えてきた九鬼の思索は、様々な危機を目の当たりにする私たちにとってもまた生を豊かにし得る力を秘めている。本書は九鬼の生涯を通して、私たちにとっての生を問いかける言葉に出会うことのできる一冊である。

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