電車にて、他人の話にばかり耳を澄ましている

新年初出勤。
乗り込んだ電車はもちろん満員で、ドア付近にいると、後からなだれ込んでくる人に圧迫されて、人の形を保っていられなくなる。
私はいつも努めて座席の前に立つように心掛けている。
今日もギリギリ座席と座席が向かい合う空間に体をねじ込ませて、来るべき時に備えた。

一旦は落ち着ける場所を確保し、読みかけの宮沢賢治の短編「貝の火」が収録されている「風の又三郎」を取り出そうとカバンに手置掛けると、隣で楽しそうに話すカップルの会話が耳に入ってきた。
おそらく20台中盤だろう二人は、一緒に暮らし始めたばかりのようだ。
女は「今度、ニトリに行こう。」と言い、男は「スパゲッティのトングが欲しいんだよね、二人前作るとなるとさー、トングがないと不便なんだ」と言った。

「二人前だろうが、何人前だろうが、ざるにあげて、菜箸で適当に皿に振り分けりゃいいだろ」と思っていた私は、そういう考えかたもあるんだなと感心してしまった。

カップルの話は終わらない。
住んでる地域の治安の話から、首都圏ではどこの治安が良くないとか、一番治安の悪い地域は関西の西成だとかいう話を、朝の満員電車と不釣り合いの溌剌さで繰り広げていた。
男の方が西成のどこがどう悪いのか、女に思いのほか丁寧に説明している。

男が、西成にはショーウィンドウ越しに娼婦を買える店があるんだと話始めた。
以前その当時彼女がいなかった仲間同士で、その場所を訪れたことがあるんだとか。
ショーウィンドウには日本人とおぼしき女性がおり、「20分二万円」の「自由恋愛」で、そういった行為に及ぶらしい。
もう少し細かい状況説明があったが、私はこのとき並行して「貝の火」を読んでいたので、忘れてしまった。

男が、「やっぱ怪しいなっと思って、見物だけして帰ってきたんだよ」と顛末まで、しかっり彼女に報告していた。
私は、男の言う通り、怖気づいて利用するには至らなかったんだろうと思った。
けど、隣の彼女は、わざとらしく優しげな声色で、
「本当にそう?、正直に言っていいんだよ。」と念押してきた。
娼婦と「自由恋愛」していた事実を獲得して、彼氏のマウントでも取りにいったのだろうか。
男はヘラヘラと否定する。
女が楽しそうにまた別の話題を話始める。
二人が笑いあう。

**


疲れた。終業時間ぴったりに席を立つ。
「お先に失礼します。」
これは、とあるボタンを押すと自動で発せられるようにシステム化されている言葉である。
帰りの駅までは2分とかからないで着く。
改札を抜ける瞬間に、「どこでもドアがあったらいのにな」ってたぶん50回くらい思ってるんじゃないかな。
電車に乗り込み、幾度か乗り換え、急行だが特急だかの、最寄りのある路線の電車に乗っていた。
気が付いたら目の前の席が空き、すかさず腰を下ろす。
日中に服用した薬の影響か、やけに眠いけど、眠りにつけるほど体が疲れていないアンビバレントな感じ。
空いた隣の席に中年女性が座った。
彼女の目の前には小学校の高学年と思われる男児が立っている。
その女性は男児に向かってしきりに、塾での学習状況を質問していた。
○○(おそらく名門校)コースのクラスは、静かに授業しているが、そうでない、おそらくランクが下がった△△コースの授業は生徒がうるさくするのだと男児が不満をこぼす。
女性が「○○コースにしたらいいじゃない」と言うと、
「嫌だ」と男児は即答した。
子供は子供で色々と悩ましいことがあるのだろう。
中年女性は男児にどんな学習をしたかを聞くだけではなく、時折その取り組みを褒める言葉をかけている。
「よく、頑張ってるね」
質問攻めの端々から、彼の将来のことを真剣に案じているニュアンスが伝わってくる。
聞き耳を立てている私にも安堵感のようなものが広がっていく。
降車駅に到着し、女性と男児は手をつないで電車を降りた。
私も同じ駅で降りて、同じ各駅電車に乗り換えるところだったが、あえて彼らとは別の車両に乗車した。
もう十分に満たされた心地がしたから。

そして、ふと私が何者なのわからないことが気になった。

「同棲し始めたカップル」
「法すれすれの怪しい店で働く娼婦」
「勉強道具がいっぱい詰まって重そうなリュックを背負う小学生」
「リュックの前ベルトを留めてあげる母親」

恋人も作らず、仕事も判然としない私。
母でもはなく、娘であった時間はとうに過ぎてしまった私。

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