現実を見なさい、と、かつて何人かに、何度か言われたことがある。

音楽が好きで、音楽で稼ぎたくて、バイトしながら勉強したり小さな仕事をもらったりしてたころ。

現実を見ろと言われるたびに、現実ってなんだっけ?今ここにいる自分は現実ではないのか?今音楽で成功してる人たちは幻想なのか?そんな風に感じていました。

言わんとすることはわかる。実現可能性の低い事象に時間を費やすなというニュアンスでしょう。

でも待って、改めて考えるとよくわからなくなってきた。

僕が音楽にうつつを抜かして無一文になってのたれ死んだとして、あの人に何の影響があったんだろう。

多分何もない。

ほらみろ、言わんこっちゃない。などと自分の意見を正当化して、僕の死を自身の自己肯定感に利用するだけなのだ。知らんけど。

僕がのたれ死んで何か困ることがあるなら、むしろ金銭的な援助をしてくれるべきだったのでは?笑

でも当時の若くて変なところで真面目で周囲の目を気にしがちな自分(今も「若くて」が外れただけで大して変わってない)は、その現実という言葉に引っ張られて、うんうんうなって、結局何も行動できないまま勝負を降りた。

それがすなわち現実を見たということなのかと言われると、やっぱり全然わからない。

今でもしょっちゅう現実ってなんだっけってなる。

どこにいても何をしててもぼんやりと、夢の中にいるような気持ちになったりする。

ここにいて、誰かと話してたり、何かを考えたり感じたりしている自分が、本物じゃないように思える瞬間がある。

あれ?俺は誰だ?なんでここにいるんだ??

ふとした瞬間にそんな風に思う。

ところで「わたしは誰?ここはどこ?」っていう記憶喪失のステレオタイプ、出典はどこなんでしょうか?

どうでもいいですね!

いや、意外と結構気になるな。笑

そんな風な乖離を抱えたまま日々を生きていて、いつの間にか自分はこうなんだって自分自身をがちがちに縛りつけてて。

そのことにも薄々気づいてはいたけど、問題として捉えることも、深く考えることもなく。

いつか爆発するんじゃないか、ぶっ壊れるんじゃないかと、漠然とした不安だけがいつも付き纏う。

そうやってぽっかり空いた心の穴を、自分自身でどうにも出来なくて、結局目を逸らすのだった。

なんだそれ。

現実を見るというのは心から目を逸らすことなのか。

夢を諦めて得られる現実って、そんなもんなのか。

これじゃあどっちが夢でどっちが現実かわからない。

なんだかなー。

誰しもそうやって、色んなものと折り合いをつけて、諦めて、目を逸らしながら生きてるんだ、って思ってたんだけどさ。

実際身の回りには、周りの言葉に耳を貸さず、自分の意見を押し付け押し通し、成功したら自分の手柄、失敗したら周囲のせい、みたいな俺が正義だおじさん(あるいはおばさん)もいるわけです。しかも割とたくさん。

なんだあいつら…

結局僕に現実云々言ってきた人たちもこの類なんだろうなー。

自分が絶対正しいと思ってるから、偉そうに人にお説教できるんだ。

付き合ってられない。

俺は好きな人たちと好きなことをして生きていくぞ。

そして最後はのたれ死ぬんだ。

ファンタジーの中に生きて死ぬ。

それが出来るだけの想像力を、多分自分は持っている。多分。

それでもまだ現実を見ろなんて言ってくる奴には、言ってやろう。

おやすみなさい。良い現実を。

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