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君はpetit 〜学校エッセイ11〜

郊外の大きなショッピングモールのペットショップで、子犬を抱いた。店員さんの仕事の大半(?)が、抱かせることに違いない。好きだから抱くのか、抱いたから、抱かれたから、好きになるのか? その話はまぁいいか。

自分がメインで犬を飼ったことはない。それなりの年齢だから、人生最初で最後の自分の犬を飼ってみたいと思っていた。いや、最初は少し興味があったくらいで、仕事をやめ家にいるようになって、その思いが強まった。2年前まで生徒に発信していた情や愛の新たな行方、新たなステージ。

実家にいた犬が聞かん坊だったから、優しくて吠えなくて愛らしい犬がほしい。ペットショップの大きな柵の中をよたよたうろちょろしている小さな子犬たちを眺めた。ある子犬に目がいった。

「この子だ」

抱かせてもらう前に、一緒にモールに来てショップの入口の内側に立っている夫をちらりと見ると、しぶい顔をしていた。夫も犬は好きだ。最後に犬が天国へ行くお約束の映画。夫は脱いだナイロンのジャンパーで涙を拭いていた。とにかく私は店員さんが抱き上げた犬を受けとった。子どもがいないこともあってか、私は動物や赤ちゃんをうまく抱っこできない。恐る恐る、子犬の大切な胴体に、両掌を合わせて巻きつけるようにした。

子犬は頸を前に伸ばして私の唇を数回舐め、胸に引き寄せると、私に身をもたせた後膝の上に丸まって瞳を閉じた。

「合うんじゃないですか。いい子ですよ」

私は再び、離れて待っている夫に視線を送った。夫は頸を横に振った。

帰宅後夫は、いつものように私に理を説いた。私が療養中であること、いまペット禁止の家にいるから越さなければならないこと、転居や飼育にお金がかかるのに、教師をやめた私がいま無職であること、犬の性格や病気なども含めて受け容れ最後まで責任を持たなければいけないこと、旅行が難しくなること。そして、犬を長く家にひとりでいさせることができないにもかかわらず、夫婦2人暮らし、夫は仕事で基本家にいないから実質ワンオペ飼育になること。

「お前が寂しいからって犬を寂しくするな」

でも。子どもがいないから犬を飼いたいのに、大家族じゃないと犬を家族にできないなんて……。

その子犬を抱いた頃、病気で心が不安定だった。医師に、こんな私が犬を飼っていいか聞いた。

「どうぞ」
「でもね、今ではないわね」

「あなたの体調が悪くなって、周りもあなたのケアに精一杯になったら、ワンちゃんがかわいそうでしょう」

彼女の言葉で、夫の言う正論も腑に落とし込まれた。
ペットセラピーというのもあるじゃん、と思っていたけれど、私の代わりに犬が病んでしまうかもしれない。ワンちゃんの立場を考えきれていなかった。

私はその犬に、ペットショップの入っているモールの名に因んで「かもい君」と名前をつけて、頭の中で飼っている。性別は忘れてしまった。

petの語源はpetitだという説がある。「プチ家出」「プチプラ(イス)」のpetit。「小さい」という意味だ。「ポチ」の語源までも「petit」かもしれない、と検索で出てきた。

小さきものはみなうつくし、と清少納言は書いたけれど、親や社会は子どもを、飼い主はペットを愛おしく思い、そして、慈しみ続けなければいけない。親や飼い主が、子や犬が病める時も健やかなる時も。共倒れが一番まずい。

若いお母さんに長く家に置いていかれ、冷蔵庫を一生懸命空っぽにした末に餓死してしまったきょうだい。お母さんに橋の欄干から落とされたらしい子ども。極端にいえば、親として、教師としての「自分」も、煮詰まればそういうことをしてしまう状態になってしまわないとは限らない、ということだ。

私には実子がいない。生徒が教室の窓から落ちたら(その夢をよく見た)、生徒の書類を書き間違えてその生徒が入試に落ちたら(この夢もたまに見た)、生徒が私の行いで学校や社会や人間を嫌いになってしまったら……

親や教師よりしっかりしていてよくできた子、のように見える子もいる。実際にそうである子もいる。でもやっぱり、「弱く小さく守り続けるべきもの」として接するべきなのだろう。だって、大人になってさえも、私たちは弱いのだから。

親や教師になっ(てしまっ)たから、そうあり続ける努力をする。1回休んでしまったら、戻るのはとてもしんどそうだ。教師はともかく(教員免許は簡単に取れすぎると私は考えているが)、親や飼い主になるのに資格は要らない。安易に小さきものを我がものとし始めてしまう人もいる。

考えすぎてしまえば親にはなれないし、教師のなり手もいなくなり(実際いま教師は不足している)、ペットショップは軒並み潰れてしまうが。

petitなpetを背負ってみるのはいつの日か。


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