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2時間だけ、CODAになる

ぼくは1月から週一で国際手話通訳の養成講座を受講している。

通学とオンラインを選ぶことができて、通学できないときはオンラインに切り替えることもできるとはいえ、サインの角度とかイメージがつかみにくいこととオンラインが苦手なので、今のところすべて通学を選んでいる。

レッスンは今日で4回目で、ぼくは休むことなく受講できているけど、回を重ねるごとに受講者がひとり、またひとりと減っていく。

もともと通学していた人もオンラインに切り替えたり脱落したりして、初回5人だった受講者が、ぼくを含めて3人に減った。

講師の方はもともと聞こえない方で、ぼく以外の2人の受講生も聞こえない方。
ぼくは通学クラスでただ一人の「聞こえる人」になった。

今公開中の映画「CODA あいのうた」は一人の健聴者と3人の聞こえない家族が織り成す物語だけど、ちょうど同じ構図になる。

レッスン開始までの時間や、レッスンの間にある10分の休憩時間は、手話での雑談や質問が容赦なく次々と押し寄せる。

ぼくは日本手話も日本語対応手話も理解できない。
でもサインを見ていると、不思議と理解できてくるし、たどたどしくも伝えることもできる。

ここで、ぼくは今まで壮大な勘違いをしていたことに気がついた。

それは、手話は

聞こえない人と話すための唯一の手段ではない

ということ。

手話の教科書にあるサインを使わなければいけないルールはないし、聞こえない人も教科書にあるサインだけを理解することができるというものでもない。

要するに、

表現の方法はひとつじゃない

ぼくが目指しているのはNHKのEテレに出演して淀みなくニュースを伝えることじゃない。
聞こえない人と楽しくコミュニケーションが取れれば、それでいいんだよね。

でもここで怖じ気付いてしまったら、間違いなく目指したいところにたどり着けない。

音のない世界だけど沈黙が許されないというのはかなりの刺激になるし、望んでもなかなか手に入れることはできない環境だから、楽しまないとね(*^ー゚)

もちろん、正しいサインを理解するに越したことはないけど、サインがわからないことは沈黙していい理由にはならない。

ぼくは知らず知らずのうちに、自分の心の中にバリアがあったことを恥じた。
そして、何となく自分の胸に横たわっていた迷いが一気に消え去った。

「迷わず行けよ、行けばわかるさ」

2時間だけのCODA体験だけど、これは逞しくなることができると強い手応えを感じた。

今後も記事を増やしていきますので、ご期待ください。