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平成最後の終戦の日に思うこと

現在30歳の私は当然戦争を知らない。
私の母は現在56歳。私の母方の祖父は2年前に86歳でガンで死んだ。

祖父は分かりやすく言うとちびまるこちゃんの友蔵おじいちゃんみたいな感じ。見た目も、そして友蔵さんがまるちゃんを溺愛するように、私たち姉妹に優しかった。そして同じく友蔵さんのようにちょっとお調子者で、よく祖母や母たちに怒られていた。

明るくて調子のいい人だった。たまに短気だったし、外面だけよくて家族は迷惑していたらしい…という話も聞いた。でも私にとっては本当に優しくて、面白くて、楽しくて、可愛げのある大好きなおじいちゃんだった。

たまーに、戦争の話をしていたおじいちゃん。誰もあまり興味を持たず聞き流していた。ガンになる数年前から、自分の戦時中の体験を本に残しておきたいと言って原稿を書き始めたぐらいだ。

ちゃんと文章を書いたこともなく、「原稿」というには支離滅裂なものだったけれど、強引に自費で数百冊刷り上げたらしい。お金も発生しつつ他人の手も加わっていたものの、読んでいて分かるような分からないような文章も続く自叙伝だった。でもおじいちゃんは本当に満足気だった。自叙伝が完成した2年ほど後に、突然末期ガンが見つかった。がんが分かってから2カ月ほどで亡くなったおじいちゃん。本当に自叙伝が完成していてよかった、と親戚一同で話をした。

おじいちゃんは昭和5年に九州で生まれた。おじいちゃんのお父さん(私のひいおじいちゃん)は学校の先生だったらしい。戦時中に朝鮮半島を植民地化していた日本は、朝鮮半島に学校の先生を派遣していたそうだ。私のひいおじいちゃんは今の北朝鮮にあたるところに派遣され、おじいちゃんたち家族もついていった。最初の派遣先は吉州というところだったそうだ。

吉州の次は茂山というところに派遣された。その次は貫谷(かんこく)。そして中学生になったおじいちゃんは清津(せいしん)というところにあった、清津師範学校に入学した。30人ぐらいの学友と寮生活をしていたそうだ。

(ここまでの記述は、すべておじいちゃんの自叙伝に書かれていた内容だ。つくづく書き残してくれていてよかった)

昭和20年8月9日、学校のすぐそばの海辺からソ連軍の艦隊が攻めてきたそうだ。おじいちゃんは後方から銃弾飛んでくる状況で必死に逃げた。なんとか逃げ切って駅から列車に乗り込んだ。寮生活をしていたため、とりあえず家族の住む新阿山(しんあざん)というところに戻ろうとしたそう。

家に戻る途中、会寧(かいねい)駅を過ぎて次の中島(ちゅうとう)駅に近くなったとき、中島駅に上りと下りの列車が停車していたそうだ。おじいちゃんは一緒に逃げていた学友たちと、上りと下りの線路の間に座っていた。そして上りの列車に乗ろうとした瞬間、下りの列車から「つとむがおる!」と声がしたそう。つとむはおじいちゃんの名前だ。

なんと、下りの列車におじいちゃんの家族みんなが乗っていたらしい。「つとむがおる!」と叫んだのは、おじいちゃんのお母さん(私のひいおばあちゃん)だった。おじいちゃんの防空頭巾の布の柄を見て、おじいちゃんに気づいたそうだ。これはもうドラマか映画だ。おじいちゃんのお母さんは大声で泣いていたそう。

そのまま家族とすれ違っていたら、私のおじいちゃんは北朝鮮で残留孤児になっていただろう。その場合私はきっとこの世に生まれていない。


列車ですれ違いそうになった時、防空頭巾のおかげで「つとむがおる!」になったところがおじいちゃんの自叙伝のハイライトだ。
でも話はまだまだ続く。そこから日本は戦争に負け、おじいちゃん一家は何度も危ない目にあいながら満州に渡り、舞鶴港に引き揚げてきた。

昭和13年の小学校2年の時に北朝鮮に渡り、昭和20年に終戦を迎え北朝鮮から満州に逃げた。舞鶴に引き揚げてきた昭和21年4月には16歳になっていたおじいちゃん。北朝鮮に渡った関係で学年がちょっとぐちゃぐちゃになっているようなのであいまいだが、小2から16歳までを北朝鮮や満州で過ごしたらしい。その年齢でそれだけの体験をしていたのだから、80歳を過ぎてもちょくちょく戦時中の北朝鮮の話をしたり、自叙伝の完成にエネルギーを注いでいたのも理解できる。

私は戦争こそ知らないが、大好きなおじいちゃんから直接話を聞いたり、亡くなった今でも自叙伝が残っているので「戦争」を感じることはできた。当時私のおじいちゃんぐらいの年齢の方は、今80代後半ぐらいかな。
これからは「戦争を体験した人」がどんどん少なくなるだろう。そしてそれにあわせて「戦争を体験した人に直接話を聞いた人」も少なくなっていく。

子供なりに物事を理解できるのが10歳としたら…平成最後の年に生まれた赤ちゃんが、戦争を体験した方に直接話を聞くことができたとして、それは10年後の2028年だ。2028年には、戦争を10歳の時に体験した方は93歳になっている。きっと元気な93歳の方がいらっしゃるだろうし、聡明な10歳の子供もいるだろう。両者がうまく出会えれば、2028年には戦争を体験した方から、10歳の子供が直接体験談を聞けると思う。でもそれ以降は…難しいだろう。

「戦争を体験した人」がいなくなり、「戦争を体験した人に直接話を聞いた人」も少なくなる。私はせめて自分が「戦争を体験した人に直接話を聞いた人」として、これから生まれてくる子供たちに何かを伝えていきたい。

8月にテレビや新聞、そしてネットでも戦争に関するニュースを見ると安心する。まだ私たちは「忘れてはいけない」ということを忘れていない。きっといつかは限界が来て、また同じことを人間は繰り返すのだろうけど、その限界が少しでも遠い未来であってほしいと思う。

おじいちゃんは自叙伝のあとがきにこう書いていた。

人間はいつ何処で不幸な境遇に遇うかわかりません。戦争は、勝ち負けに係わらずしてはならないのです。

前後するが、自叙伝の初めにはこう書いている。

私はあの時、親と遇わなかったら今頃どうなっていただろうか。「御縁に遇う」「お陰様で」「ありがとう」感謝の気持ちでいっぱいです。


私の職場は夏休みは7月~9月におのおの休む方式なので、私は昨日も出勤したし、明日も出勤する。
今日のランチは家から持って行ったジップロックに入れたお弁当だった。今日も蒸し暑かった。先週海に遊びに行って、日焼け止めを塗っていなかった肩が日焼けで赤くなってヒリヒリしている。彼氏と「行きたいね」って言ってた海に女友達と勝手に行ってきたので、彼氏はちょっとすねている。でも週末に彼氏がずっと行きたがっていたビアガーデンに行くので、その時機嫌をとっておこうと思う。来月は久々に出張の予定が入って、今かなり緊張している。今日の仕事終わりには図書館に行って、本を返却してきた。期限を過ぎていたので職員さんにちょっと怒られた。

こんなありふれた日々。平凡な日々。でも今こうやって私が生きているのも、おじいちゃんが生きて日本に帰ってきてくれたからだ。
もしロシアの艦隊に銃撃されていたら。もしおじいちゃんが防空頭巾をかぶっていなくて、ひいおばあちゃんがおじいちゃんに気づかなかったら。引き揚げの船の中で伝染病にかかっていたら…言い出すときりがない。無事に日本に帰ってこれたことは奇跡だ。

戦争はいけない。絶対に。


ガンが見つかって即入院したおじいちゃん。日に日にやせ細って弱っていった。私はブログを書いていたので、ずいぶん弱ったおじいちゃんに「おじいちゃんの本、私がパソコンでみんなに見れるようにしておくからね」と言った。おじいちゃんはもう喋れなかったけど、力強くうなずいていた。約束をずっと実行できなくてごめんなさい。全文ではないけれど、おじいちゃんの戦時中の体験を、いろんな人が見れるところに書き残したよ。


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