自分は「ジョーカー」か、それとも「社会」か問え

映画「ジョーカー」感想【※ネタバレあり】

 最初に断っておくと私はDC作品について全く詳しくない。ダークナイトもバットマンも見たことがない。ついでにいうと映画についてもあまり明るくない。(なので本作を気に入った自分におすすめな作品があったら是非コメント等で教えて欲しい)

 つまり特別詳しい評論家やマニアではなく、単なる「一市民」の感想だ。

 本作は何らかの才能や超人的な能力をもった人間ではなく、どこにでもいる一市民の物語だ。しがないピエロとして活動するアーサー、格差の広がる汚れた町で苦しい生活を送る彼。母親の妄言、失職、公的援助の打ち切り…。様々な要因からドミノ倒しのように崩れる生活、そして「ジョーカー」の誕生。

 

 どこからどこまでが(作中において)現実か虚構なのか、最後まで線引きが曖昧だ。あるいは全てアーサーの虚言なのかもしれない。(DC作品に詳しい方々が「こんなのジョーカーじゃない」と言っていたところからもそう思わされた。)

 しかし面白いことに、自分はこの作品にリアリティを感じ取り、現実社会を重ね合わせ、「自分自身もジョーカーなり得るのではないか。」と感じずにはいられなかった。物語はフィクションだし、作中においても虚構に過ぎないかも知れないのに。

 常識的な倫理観からもちろん彼の行いが許されるものではないことは分かるが、クライマックスで燃え盛る街に照らされ暴徒化した市民達に囲まれ笑顔を「造る」ジョーカーの姿は壮観でかっこよく映った。フィクションだからこそ許されるリアクション、だがこれは本当に物語なのか、現実だとすれば自身の反応はなんと非人道的ではないか。現実と虚構に境目が曖昧になった自分の倫理観は激しく揺れた。

 

 作品の枠を飛び出し、見てる側にとっての「現実と幻想の区別」さえも曖昧にしてしまう部分が、恐ろしくそれでいて魅力的に感じた。

 一方で、この作品は鑑賞する私たちの安易なジョーカーへの感情移入をも見透かしていたようにも感じた。
 前述の通り、どこかしらで「弱者」としての立場を持つ限り誰しもが自分もジョーカーたり得ると自覚し、多少なりとも彼に自身を重ね合わせたはずだ。

 しかし自分が弱者を虐げる「社会」側の人間である可能性を考慮しただろうか。善良な市民だと信じて疑わない人々がテレビ番組で他者を笑い者にする、社会に虐げられる人々がピエロに仮装し電車に乗ってデモに向かう場面では同じ弱者であるはずの他者に対し暴力を振るう。そうした描写にのせて、自分のことを棚上げして自身が弱者側であり善良だと疑わない観客側をも嘲笑しているように感じた。
 印象的だったのは、母親を殺害したあとアーサーの家を元同僚たちが訪ねたシーン。ランドルを殺したアーサーは小人症の男を逃がす、しかし彼はドアの鍵に手が届かずアーサーに開けてもらう。この場面、私が見ていた劇場では笑いが起こった。たしかに緊張の場面でユニークな描写だが、笑った観客たちは物語序盤で職場にて小人症の男を差別的にからかう同僚たちと同じではないか。 (対照的にアーサーはこの場面で持病を絡めた「作り笑い」しかしていない。) 

 これも現実と虚構の境界が曖昧になっていたからこその感想かもしれないが…。


 さてジョーカー、いやアーサーは作中ラストで「きっと理解できない」と嘯く。あれこれ考察したり巧緻な感想を発そうとする僕らを嘲笑ってるかのよう。しかし僕らはこの挑発に乗るべきだ。単に「自分も抑圧から解放されたい!」とか「今の社会くそくらえだ!」とか、あるいは「犯罪を容認している作品だ!」とか「子供に見せるべきではない!」とか安直な感想に飛び付くにとどまらず、そこを足掛かりにどこまでも考え込む。そうして見つけ出した各々の解釈こそが、この映画の一番の魅力ではないか。



 以上、現実と虚構の区別がついていない、ジョーカーの手のひらで転がされてるだけかもしれない一市民の感想。

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