コンプレックスのお話。

ふと思いついたので、コンプレックスについて書こうと思います。

ビーマイベイビーではなく、劣等感のお話です。


私自身、以前はかなり劣等感の強い人間でした。「あんな顔に生まれていれば」「あんな彼女を連れて歩けていれば」「高校生どうしの甘い恋愛ができていれば」などです(一定の傾向が見られますね)。

今もそれらが皆無かといえばそうではないのですが、以前に比べかなり薄まってきたようには思います。種類や内容は違えどコンプレックスに苛まれる方は多いと思うので、自分なりに考えた心の持ちようを、誰に頼まれるでもなく一方的に紹介させていただこう、というのがこの記事の趣旨です。

まず、自分が「なぜそのコンプレックスを抱えるのか」を考えるのがはじめの一歩です。コンプレックスは基本的に自分とは異なる誰かと比較した中に生じるものかと思いますが、なぜ自分はその人と比べるのか、という問題に向き合う必要があります。

私自身も、容姿端麗でスポーツができてスタイルの良い美女を連れて歩いている友人や、制服で街中をデートしている見知らぬ高校生カップルを見るたびに、恨み辛みとは異なる虚しく厭な感情に支配されていたので、その原因を突き詰めることにしました。そして、自問自答を繰り返した末、一つの真理にたどり着いたのです。

それは、コンプレックスは「他人と比べている」ようで実は「理想の自分と比べている」のだということです。そう聞いて「当たり前じゃん」と思った方はこの記事でこれ以上得られるものはないのでそっとお閉じください。「ん?どういうこと?」と思った方はもうしばしお付き合いを。

私たちは兎角「他人と比べてしまう」と思いがちではあるのですが、実は理想の自分と現実の自分を比較してそのギャップに苦しんでいるだけ。ですが「理想の自分」は曖昧かつバーチャルなものなので、そこに自分の理想像を投影する「ちょうどいい他人」がいた場合に、その他人を比較対象として擬制しているーーこれが私の考えです。

例えば、あなたの友人がお尻でクルミを割るのが物凄い上手だとして、あなたはその友人を見て「くそ!なんで俺/私は上手くできないんだっ!世の中不公平だ!」などと思いますか?おそらく思わないでしょう。ですが、もしあなたが「すぐ他人と自分を比べてしまう」人なのであれば、クルミ割りの友人(今からこう呼ぶことにしました)に対する羨望を覚えるのが自然ではないですか?

つまり、なぜあなたがクルミ割りの友人に対して劣等感を覚えないのかというと、それは、「理想のあなた」がお尻でクルミを上手に割っている必要がないからです。理想のあなたが、クルミ割りの友人には投影されていないのです。

コンプレックスの代表格として挙げられる「モテない」「お金がない」「才能がない」などは、人間誰もが本質的に持っている願望(性欲だったり食欲だったり)に直接または間接につながっている。だからこそ、多くの人がコンプレックスに感じるわけですね。


このことを踏まえると、ほんの少し、コンプレックスからの脱却への道筋が見えてきます。

まず、コンプレックスの正体が他人ではなく理想の自分との比較であると分かった現在、そこに「勝ち負け」は存在しません。他人との比較であれば「あいつに負けた」という話につながり得ますが、相手が理想の自分などというふわふわしたものなので、そもそも勝負しようとも思いません。

そして、「他人」を超えることは理論的には可能ですが、「理想の自分」を超えることは理論的に不可能です。トートロジーのようですが、「超えられない」から「理想」なので。

このことをコンプレックスやそれに似た感情に苛まれる度に思い出し、意識的に自分に言い聞かせていると、徐々に馬鹿らしく思えてきます。自分が、実態のない、かつ勝ち目のない「仮想敵」と戦っていることに気づくからです。こうなれば、もう怖いことはありません。


巷では「他人と比べずに」「自分らしく」などと言われますが、これが根本的な間違いなのです。本当の意味で他人と比べるのは、決して悪いことではないですし、むしろ良い刺激がもらえるはず。そして、ここまで読んでくださった皆さんなら、ここでいう「他人と比べる」ことが、決して他人を羨んだり自分を蔑んだりすることではないという事実を、十分すぎるほどに認識して頂けるのではないでしょうか。


何だかスピリチュアルな記事になってしまいました。こういうの、あまり好きではないです。ただ、どこかのタイミングで書こうとは思っていたので。

では。オラオラあっした〜。

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