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犬の幸せは誰が決めるのか?

犬と一緒にいて違和感を感じる言葉がある。
それは、
「本当に犬って賢いよね」
という言葉。

決して犬が賢くないと思っているとか
うちの子が馬鹿だと思っているとかじゃなく、
賢い、賢くないという判断そのものに
違和感を感じるのだ。

なぜなら「賢い」と褒めている中には、
自分の方が賢いと思っている前提がある気がしていて、
「人間ほど賢くはないけど、
犬の割には賢いよね」と言っているように
聞こえてしまうのだ…(すごい卑屈w)

だけど私にとって犬は
ペットとか犬という動物というよりは、
一緒に暮らす一つの存在で、
そこに人間と動物という境界線を引いていない。
だから個体としての能力が
どっちが上とか下という概念がない。

もちろん一緒に暮らす上で
教えなければいけないルールや
従ってもらう主従関係はあるものだと思う。
だけどそこに能力の評価は存在しない。

例えば犬とのコミュニケーションも
言葉は通じなくとも
お互い分かち合えているのが
普通だと思っていいて、
自分の犬が何を感じていたり考えているのかは
大体わかるし、多分向こうもよくわかっている。

だからその当たり前を
「賢いね」と褒められても
違和感を感じてしまうのだと思う。

つまり反対に言えば、
こんなこと犬にはわからないだろうってことも、
ちゃんと説明してあげれば伝わる。
言葉は理解しなくともね!

私が離婚をする時に
犬たちが離れ離れになってしまうのが
申し訳ないと嘆いていた時に、
ある方に言われてハッとした言葉がある。
「ちゃんと説明すれば犬達もわかってくれますよ」
って。

確かにこの状況になってしまったことを
ごめんねと謝ったりはしていた。
でも状況の説明まではしていなかった。
なぜなら自分も「説明しても理解しない」って思ってたから。

だけど犬達も状況がわかれば納得してくれた。
新しい環境でも、
彼らは彼らで新しく幸せに生きる方法を
自分たちなりに探してくれている。

だから勝手な人間のエゴで
「犬たちがかわいそう」
とレッテルを張る方がよっぽどかわいそう。

人間の勝手な判断で
勝手にかわいそうな犬に仕立てあげてるだけだから。
そうやって犬たちを見て
「ごめんね」「かわいそうに」
と思いながら一緒にいると、
結局犬たち自身も「私はかわいそうな犬」
っていう風に思ってしまう気がする。

だから私はそんな罪悪感は捨てた。
だってそうじゃなきゃ愛犬に対して罪悪感を
もっと感じるような現実になっちゃうからね!!
私は愛犬の幸せを誰よりも願っているの。
だけどその幸せかの判断は愛犬自身に委ねる
彼はそれが出来るから。
私はただ、自分が彼といて幸せだから、
これからも一緒にいたい。
ただそれだけ。


……

Hadesへ
あなたと一緒に居る時間が
何よりも穏やかで幸せな時間だよ。
出会えてよかった。
私と一緒に居てくれてありがとね。

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