ヤスパースと仏像

ヤスパースが仏像を称賛してるとは知りませんでした。

偶像としての仏像ではないはず。
ヤスパースは聖書や預言といった明示的な神の言葉を疑はしく思ふ哲学者だから。

「神性は暗号の中に示現、あらはれるが、しかも隠れたままである。」
(『臨床哲学』加藤敏より孫引き)

このヤスパースの言葉は、なにもののおはしますかはしらねども、の歌と同じことを言ってるとわたしは思ひました。

絶対的存在は、相対的存在である実存の意識によっては把握できない。といふ理屈。
ヤスパースは、神はカクリミ、って感じで捉へて、神をニーチェ的な死の宣言から守ったと思ひます。

仏像を描くのは、ヤスパースの捉へ方から見ると、
<暗号が存在することを知る作業>
だと、わたしは、思ひます。
解読では無い。
だから、仏像を写生することは、どうしても、写経のやうな<行>へと移行していくのだと思ひます。

「哲学的実存は、隠れたる神に直接近づかないことに耐へる。ただ、暗号文字だけが、私が神に用意してゐるときだけに、語るのである。」

<私が神に用意してゐるとき>
この言葉。実際のところ、どんな時なのか?と考へたら、
写経写仏かな
と、わたしは思ひました。
違ってたらごめんなさい。

ヤスパースは、
<敢えて、哲学者に留まることで信仰を守る>
といふ姿勢だと思ひます。

だから、ヤスパースの言葉として引用された内容は、たとへば、宗教家の頂点に立つともいへるローマ法王などの言葉より、わたしたち日本人には響くのだと思ひます。

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