弱者(被差別者)と自己規定する人に接する時に気をつけてゐること

わたしは、自分を弱者(被差別者)と自己規定出来る人の前では常に緊張します。
さういふ人たちのSNSを見ると
日本人の心ない言動で傷つき苦しんできた
と書かれてゐるのを見たことがあるからです。

自分を弱者に優しい人間だと信じて、弱者の悲しみをなんとかしたいと思ってゐる人たちでも、弱者からすれば、そんな人たちも、今日も、弱者を傷つける、心ない言動をしてゐるかもしれません。

心を傷つける言動かどうか、客観的にわからない場合、それが人を傷つける言動だといふことは、傷ついた本人が決めることだからです。
褒められて傷つくこともあります。
普通は、客観的に決められないことについては、傷ついても、黙ってゐます。
弱者と自己規定すると、黙ってゐないですむやうになります。
傷ついたときは、傷ついたと世間に言へるのが、自己規定した弱者です

わたしは、特に(弱者を虐げたいと思ってるわけではないけど)弱者にことさら優しくしたいとも思ってはゐないので、
弱者と自己規定する人の前では、自分が、知らない間に、老害政治家みたいに、失言しないかと、ひどく緊張してしまふわけです。

これには、もう一つ、理由があります。
わたしは関西圏で育ちましたから、学校で被差別部落のことを教へられました。
その時、教へられる内容の背景に、差別に関する、次のやうなドグマがあるのを感じました。
差別してゐるかどうかは、差別する側にはわからない。
或る言動が、差別かどうかを決められるのは、被差別者。

このドグマ☆の前の前では、自分を差別されてゐる側の人間だと明確に世間に示せない人は、示せる人の前では沈黙するしかありません。
そして、自分でも
知らないうちにやってゐる
心ない言動

について、弱者つまり被差別者から教へてもらふのを、黙って、待つしかありません。

さうしてもらって、
これは言ってはダメ
これはやってもいい

といふことをすっかり学ぶまでは、うっかりしたことは言へません。

何気ない言動をすると、たちまち
私たち差別する側の人間としては、普通の、些細な、なんでもない言動のつもりでも
当事者、弱者、被差別者は自殺したくなるほどひどく傷つく
といふことになるので気をつけなければならないと思ひます。

だから、わたしが緊張するのは、あながち、わるいことではないのかもしれません。
ただ、これもまた、わたしの差別意識の為であると糾弾されるおそれも感じてゐます。
なので、こころを引き締めつつ、笑顔をわすれないやうにしようと思ってゐます。

☆このドグマは、
最終的には、
既存の体制の支配層以外の人民は、すべて、被差別者である
といふ共産主義的な教義から生まれてゐます。

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