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趣味の話

 休息の期間なので一日が長い。この長い一日を少しでも何かをして過ごそうと最近している趣味の話をしてみる。なお、この暇つぶしのうち大半の時間を占めるYoutubeと睡眠の時間は除くこととする。書いていると空虚な時間の使い方に自己嫌悪に陥りそうなので。


散歩及び自転車

散歩譚

 病気で休むと体力がみるみると減少していく。一日の大半をベッドの上で過ごすこととなる。働かずに過ごしているいると一日に一行動しかできなくなるのだ。やがて体は本当に動かせなくなってしまうのだが、これはいけない。自分に活を入れるためにも町中をぶらぶらと歩くことは休職当時から続けていた。
 さて、このような目的論とは別にして散歩は面白い。散歩の時間の使い方は主に二つ。
 一つ目は何もない風景に目を向けることである。
 大体の場合、外にいるときは何かしらの目的を持っている。買い物であるとか、人と会うとか、もしくは仕事もそうだ。何が言いたいかというと外にいても外に対して興味を向けることは普通に生活しているとなかなか難しいのだ。散歩をするときは家の中でなく家の外にいること自体が目的となる。そうなって初めて、町というものはこちらの目を見て話しかけてきてくれる気がする。特に私は川沿いを歩くのが好きだ。何がよいのかはわからないが水の流れが好きなのだ。無心に歩いていると川の表情がわかる。家の近くの比較大きな川は日に日にその流量を変え、周囲の木々は水没林となり春を享受しているようだ。視点を遠くに移すと、まだ雪をかぶった山々を麓の生活感まで含めて鮮明に映る。ああ、私が生活している町はこんなにも広いなぁと気づく。この気づきすらも、病気に対する無理やりな自己肯定な気もするが。なんにせよ、代り映えのない生活も変わり映えがなくていいのだななんて思えるのは、意味のない散歩故の楽しみではなかろうか。
 二つ目は音楽だ。
 音楽をとにかく聞き流す言い訳のために散歩をしているといっても過言ではない。好きな音楽を聴きながら街を歩くときは世界が自分のものになったような全能感を覚える。通勤通学や作業中、机に向かってしっかりと聞く音楽とは別の良さがある。私は歩いている間、常に考え事をしている。考え事をしている間は外を歩いていても視界が思考に上塗りされているような錯覚に陥る。狭い部屋の中にいるような錯覚さえ覚える。これは不思議なことだ。しかし、音楽が背景にあると話は違ってくる。これは私だけなのかもしれないが、音楽を聴いていると思考が聴いている音楽に引っ張られる。景色から受け取る色すらも違うような錯覚を覚える。こうして見える景色を、こうして生まれる思考を楽しみに、今日もまた同じ景色を歩いて回るのだ。

自転車譚

 自転車とは厳しい乗り物だ。前に進めないときにはお前が悪いのだと包まずに述べてくる。ある種自分のバロメータともなりうる。そんな自転車が好きだ。自転車で走るときには景色はもちろんだが、自転車に乗ること自体に楽しみを見出している気がする。努力が速度に反映されていく。さらには普段の生活圏よりも遠くに行けるため、地図上の距離感よりも世界が狭くなったように感じる。同じ散歩の延長上だと思っているが、自転車に乗ることでしか得られないものもありそうだ。
 そんな自転車だが、最後に乗ったのは一年近く前になってしまう。一年前に坂の多い街に引っ越したことでなかなか自転車とは縁遠い生活になってしまった。回復を実感するために昨日、それ以来となる自転車でのお出かけを刊行した。なめていた。自転車とはかくも心肺、足腰に負担をかけるものなのか。かなり暖かくなってきたにもかかわらず呼吸のたびに胸が痛む。痛みにかまけ漕ぐのをさぼれば、向かい風にあおられ続く一漕ぎすらも難しくなる。残酷なまでに自分の衰えを感じてしまった。まあ、ある種衰えを感じるほどには回復できたと考えることもできようか。散歩と違い、自転車は挑戦となる。これからも定期的に過去の自分に挑んでみよう。

塗り絵

 塗り絵のきっかけは母である。どうやら無心に塗り絵をすることは自律神経を整えるそうな。さらには私には絵心があるため、きっと楽しめるのではないかと色鉛筆とともに与えてくれた。
 いざ始めてみると、これが楽しい。無心に塗るにしても、自分の中で書きたい絵に近づけようと、ある個所をぬりぬり、離れてぬりぬり、戻ってぬりぬりやりたいことが底を尽きない。母に感想を問われ、金魚を塗るときはどうしても金魚の色で塗ってしまう。12色の色鉛筆では物足りなくなってしまうなぁと答えてみた。母曰く、もとの色を考えているようではまだまだ自律神経を整えるには遠いなぁだそう。思った色で塗るのがよいとのことだ。むぅ。これは塗り絵にかかわらず私の思考の癖なのだが、物事の論理性に固執するきらいがある。無意識下で色を塗っていては緑色の金魚にはたどり着けない。逆に自然体で塗っているからこそ突飛な色遣いが難しい。このような常識を取っ払って描く訓練にもなろうか。手に取った色で部分部分を塗ってみるくらいでちょうどよいのかもしれない。
 絵を描くことが好きだと自覚したのは大学生の時だ。当時さいとうなおき氏の講座を見ながら日々絵を描いていた。完成した絵は主に当時好きだった作品の二次創作であり、twitter上に投稿してそこそこの拡散を得られるようになった。理屈をある程度固め、人物に関しては描きたいものを描けるようになった。しかし、途中からtwitterで伸びたくないが、せっかく描いた絵は誰かに見てほしいという矛盾した感情にさいなまれるようになり絵を描くことをやめてしまった。思えばSNS嫌いが加速したのはこのころかもしれない。
 塗り絵という形で絵描きを再開してみたところ、やはり私は絵を描くことが好きなようだ。現代人なのでやはり描きたいものとしてはキャラクターになることもわかった。しかし、キャラクター自体を描きたいのではないということも自覚した。端的に言えば風景画、自分がとらえた世界を描きたいなぁと思うのである。風景とその世界にいるキャラを描き、世界の一瞬を切り取って描写できれば、それが私にとっての理想らしい。
 このような理想を見つけてしまっては塗り絵が楽しくて仕方ない。理想は将来像として、今は目の前の幾何学的な断片を手に取った色で塗りつぶしていってみようと思う。

趣味っていいね

 つらつらと書き連ねてきたが、どうやら今は楽しく過ごせているらしい。忙しくなると趣味から離れ、始めるハードルがとかく高くなってしまうのだが、このような時間だからこそできることがあるかもしれない。今楽しめることを見つけられるのはなんだか幸せだなぁと思いつつ、休養の日々が少し明るいものに思えるような気がした。

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