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大きな存在

ドラえもんにおけるのび太のお父さんは、サンドウィッチマンほどお腹が出でいる。また、サザエさんのお父さんの波平さんはハゲていて家ではガウンを着ていて、お父さんというよりおじいちゃんだ。
このようにお父さんだったり、パパだったりで思い浮かべる存在は、人によって全く違うイメージとなる。

私にとって、また多くの人にとっての「お父さん」のイメージは自分の父そのものだと思う。私の場合、父の属性は、声がでかく、頭ごなしに言いつけてくる、ショートホープを吸っている、髭をジョリジョリしてくる、短気、コック、運動ができてカッコいい、たまに高いものを買ってくれる、みたいな感じだった。

私の性格はどちらかというと母親似でおっとりで、アレルギーなどの体質も母譲りだ。父親は何せ声がでかくて、短気なので、当時、性格的には苦手なタイプだったかもしれない。

以前、少し触れたが、私が小5のときに団地から一軒家に引っ越した。その家は兼お店であり、小5の夏から実家はレストランとなった。
そう、とあるレストランのコックだった父は、一念発起で独立したのである。
とはいっても計画的に満を持して店を始めたというより、当時バブル期で、事業をするときに良い展望を思い描きやすい時代だったのだとは思うが、費用面はじめ、見切り発車だったと思える。
店部分はそれなりに費用をかけた様子だが、住居部分は手抜き工事かと思えるほど費用をケチって造られていた。夏はサウナ状態で冬は室内でも息が白く、ほぼ断熱材などは入っていないようだったし、新築間もないときにドアや敷居など、外れて壊れたりもしていた。

そして、お店をファミリーレストランっぽくしたかったとは思うが、梨農家が多いエリアの県道沿いにあった我が家は、朝や昼下がりは近所の農家の人が憩う喫茶店、夜は居酒屋、収穫など忙しい季節になると宅配弁当屋、土日などにようやくレストランというような地域密着ながらも、コンセプトが定まらない店だった。

父と母は、私たち3兄弟のそばにいながらもお店の切り盛りに追われていた。夕食はお店が忙しくなる直前に父親が作って食べさせるという形になった。そう、お店をはじめてからというもの、私たち兄弟に「おふくろの味」はなくなったのだった。

父と母は開店から数年間は月一ほどしか休みをとっていなかった。朝8:00過ぎから仕込み等の準備をはじめ、22時過ぎに、片付けを終え、ようやく晩御飯を食べるというような生活だった。
父親は職人タイプで商売人としてや経営者としては長けていたとは言えなかったため、客の一言だったり、労働と見合わない売上だったりにイライラし、母や私や弟にあたるということも幾度かあった。私も父もこのように諸々大変になることは予想していなかった。
父が店をはじめてからというもの、環境も生活スタイルも何もかも変わったのだったのだが、数年後、新しい道路ができ車通りが減ったことと、バブル崩壊も多少影響して、売上げは年々少なくなっていった。

団地時代は8畳2部屋で5人生活だったが、新居は薄い壁ながらも私も弟もそれぞれ自分の部屋ができたことでも、家族としてのコミュニケーションをとる場が激減した。
更にベランダの向こうの公園で常にに誰かが遊んでいた団地時代とは違い、窓の向こうに友達がいない代わりに梨畑の丘が季節毎に色を変えて、ただ広がっていた。思春期に入っていく私は、部屋で一人、勉強や人間関係に思い悩んだり、音楽を聴いたりするのに加速度を上げていった。
小5~上京する高3までの8年間をこの部屋、この環境で悩んだり、気付いたり、未来を思い描いたり等、思いを巡らせたりしていたことは父も母も知らない。
両親は借金をして店を始めている大変さをもらしながら、私と2人の弟を高校までは通わせてくれた。9人兄弟の末っ子で、貧しかった父は中卒で就職をしており、とりあえず高校だけは卒業させるというのが私達に対する目標だった。
しかし、大学までは行かせる雰囲気はなく、上京して仕送りをお願いするなどは考えられなかった。
そもそも私自身、勉強に意義を見出すことができなかったので、高卒で就職すると言って、上京の名目を手に入れる作戦を立てたのが中3のときだった。そして私が入学したのがとある高校の調理科だった。
父は長男である私が店を継いでくれるであろう雰囲気を密かに喜んでいたと思う。
しかし、前回お伝えしたように、将来、バンドで成功したかった想いをしたためていた私は、家を継ぐどころか、上京するため口実としてレストランをやっている家の長男であることを利用したのであった。

貧さ故に不自由なこともあったかもしれないし、家庭とは関係ない学校の人間関係や勉強で自殺したくなるほど苦しかったこともあったが、私を留めてくれたものは苦労している両親の存在だった。私は親にこれ以上、苦労をさせたらいけないと思っていたのだ。
その親に報いるためにも、当時でっかい夢を抱いて、親に楽をさせたいと思っていた。

しかし、上京後の人生含め、苦労ばかりさせ、気付けば現在両親は70代後半となっている。
強運「マスカケ」相の私は、親孝行したくてやまやまだが、まだ何も成せていない。

挿入ソング:


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