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いつも喜ぶ秘訣

[ピリピ人への手紙 4:4,5]

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。

今日の聖書箇所
ピリピ4:1〜7

今日もピリピ人への手紙から恵みをいただいていきましょう。

使徒パウロはピリピの聖徒たちにいつも喜んでいなさいと勧めます。これが良い教えであることは誰もが同意するでしょう。しかし問題は人はいつも喜んでいることなどできるのか?ということです。

人生をある程度過ごしてみるならば誰しも喜ぶことができる状況よりは喜べない状況の方が多いのが実際ではないでしょうか?

私たちが喜ぶことができない原因の一つはやはり人間関係にあると思います。人間関係の葛藤や問題によってどれほど心乱され、喜びが失われていくことでしょう。

パウロはここでたた喜びなさいと言っているのではないのです。「主にあって」と言っています。主と一つに結び合わされていく時、人間関係の葛藤にも変化が起こってきます。

まず自分がどれほど主に赦されているか、不十分な自分を主はどれほど愛して下さっているかを悟る時、私たちは初めて主の信じられないような愛と寛容のゆえに喜ぶことができるようになるのではないでしょうか?

自分のような者に対して主はどれほど忍耐深く、憐れみ深く、恵み深く接して下さったを知れば知るほど私たちもまた周りにいる人々にそのような主の愛と寛容で接することができるようになっていきます。

私たちが寛容になれないのは他の人に対していつも自分の基準を押し付けるからです。自分の基準を絶対化しているといつもそこには葛藤と争いが起こるようになります。それではいつも喜ぶことなど不可能です。

私たちどれほど主の基準にかなわない者だったことでしょう。それなのに主はどれほど忍耐し、寛容であったことでしょう。その主の愛を体験的に知ること以外には私たちは自分の基準から解放されることはありません。イエス様を信じていますと言いながら、自分の基準で「ああするべき」「こうするべき」と人に自分の基準を押し付けているなら、人に躓きしか与えることはないでしょう。それは主の愛を知らない、主にある者となっていない、主と一つになっていないということなのです。

次に私たち生きている限り、思い煩いと心配が押し寄せてきます。それに心を奪われているなら私たちはいつも喜んでいることなど到底不可能です。

それゆえパウロはこのように勧めるのです。

[ピリピ人への手紙 4:6,7]

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

祈りという恵みの手段を使いなさいということです。私たちにはできないこと、分からないこと、どうすることもできないことは山のようにあります。

しかし全能の主にとって不可能なことは一つもなく、主が知らないことも一つもないのです。

主は弱く分からない私たちに「祈り」という武器を与えてくださり、祈りの応答を約束して下さっているのです。どれほど感謝なことでしょう。どれほど安心なことでしょう。

信仰を持って祈るなら必ず応答してくださる愛の主、全能の主がいるのです。その信仰がある者たちは毎日のように押し寄せる思い煩いと心配、問題の中でも喜ぶことができるようになっていくのです。

もちろん祈って自分の願い通りになるのではありません。しかし信仰を持って祈るなら必ず主は答えてくださるのです。

イエス様を信じていますと言ってもこの「応答の信仰」がなければ祈りはただの気休めにしかならず、自分で全て解決しなければならなくなるので、喜ぶことなどとてもできなくなるでしょう。

私たちがどれほど喜んでいるか、それは私たちがどれほど主を信頼しているかというバロメーターになり、私たちがどれほど思い煩っているか、それは私たちがどれほど自分を信頼しているかのバロメーターになるのです。

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