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道徳的な悪魔

[ピリピ人への手紙 3:8,9]

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

今日の聖書箇所
ピリピ3:1〜9

今日もピリピ人への手紙から恵みをいただいていきましょう。

パウロは犬ども、悪い働き人に気をつけるようにと警告します。

[ピリピ人への手紙 3:2]

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。

犬はユダヤ人が偶像崇拝をする異邦人を軽蔑して使った言葉です。パウロはそれを逆にユダヤ教律法主義者たちに適用するのです。ピリピの教会にもそのような律法主義者たちが入り込もうとしていたのですが、パウロはこのような激しい言葉を用いて決して惑わされないようにと警告しているのです。

ある人が聞いたならば人を犬呼ばわりするパウロに躓いたかもしれません。しかしこれが真の愛なのです。愛は曖昧な事なかれ主義ではないのです。愛は愛する者を守るために戦うのです。

ここでパウロがユダヤ教律法主義者たちに曖昧な態度をとっていたら、ピリピの聖徒たちの中からそれに惑わされる者が出たかもしれません。そしてもし律法主義に惑わされてしまうなら、救いを失うことにつながってしまいます。パウロにとってそれは死ぬほど苦しい、辛いことだったでしょう。そしてせっかく救われた魂が失われることは主イエス・キリストの十字架の血が無駄になってしまったということになり、それは主にどれほどの痛みをもたらすか分かりません。そして何よりも惑わされた本人にとって、それは取り返しのつかない永遠の損失となりかねません。天の御国を失うこと、永遠のいのちを失うことになりかねなかったのです。

それゆえパウロはこれほど激しい言葉を使っても、愛するピリピの聖徒たちを守ろうとしたのです。

律法主義というのは私たちをキリストから引き離していくそれほど巧妙な誘惑であるということです。律法主義とは何かというと、それは自分の行いによって救いを獲得しようとすることです。そしてほとんど全ての宗教は行いによる救いを説いているのです。

人はそれほど自分の行い、自分の実績、自分の何かにより頼みやすい存在であるということです。反対に人は目に見えない神とその御言葉に信頼するということがそれほど難しいということです。

パウロ自身もかつては猛烈な律法主義者でした。しかし復活のキリストに直接出会うという体験を通して、律法主義の誤りを悟ることになったのです。

[ピリピ人への手紙 3:4,5,6]

ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

パウロはダマスコ途上で復活のキリストご自身と直接出会い、直接その御声を聴くという特別な霊的な体験をします。パウロは復活のキリストを見ることを通して救われるとはどのようなことかを体験的に知ったのだと思います。

それは復活のイエス様と同じように復活すること、それが救われるということであることを悟ったのでしょう。パウロは律法主義者であった時から死者からの復活に達したいと願っていたのですが、復活のイエス様を見た時、これこそ救われた姿であることを知ったのだと思います。

復活のイエス様は律法による義とは全く比較にならない義を備えておられ、完全な義がありました。パウロはその義をいただかなければ救われないということ、つまり復活の栄光には至れないことを悟ったのでしょう。

そしてその義は主イエス・キリストを信じる信仰のみによって与えられる神からの恵み、贈り物、プレゼントであることを悟ったのです。その義はキリストと霊的に一つに結び合わされることによってキリストの義、キリストの完全さにあずかることによってしか与えられないことを知ったのです。それを受け取る恵みの手段が信仰、イエス・キリストによる十字架と復活による救いだけを信頼するということだったのです。

しかし律法主義は自分の何かの行い、実績、業績に信頼することです。少しでもそれに信頼していくなら、キリストへの信頼は失われていくのです。キリストへの信頼が失われていくなら、キリストとの関係は断ち切られていくことになります。それは救いを失うことにつながってしまいます。

律法主義は良い人になりましょう、良い行いをしましょうというものですから、人間的にはとても良い教えのように思えるのです。しかしそこには巧妙な悪魔の策略があり、それに惑わされてしまうとキリストから引き離されてしまうのです。一見とても良いもの、倫理的、道徳的に見えるのですが、そこには救いを失わせる恐ろしい悪魔の罠が隠れているのです。

愛する兄弟姉妹、愛する聖徒の皆さま、悪魔は恐ろしい邪悪な姿で現れるとは限らないのです。光の天使に偽装し、倫理的、道徳的な悪魔もいることを忘れてはなりません。

例えばキリスト教会の中には日曜日の礼拝ではなく、土曜安息を守ること聖書的であると主張する人々もいます。

その根底にあるのは安息日を守ることを通して救われるという考えです。これはどれほど巧妙な惑わしでしょう。私たちは安息日を守ることで救われるのではありません。ただ主イエス・キリストの血の功績を信じる信仰ゆえに救われるのです。

あるいはこのような惑わしもあります。土曜安息を守るクリスチャンは上級クリスチャン、それを守らないクリスチャンは下級クリスチャン・・・これはイエス・キリストの十字架の救いプラス何かが必要だと言っているのと同じです。

イエス・キリストを信じて救われた者にはもう全ての日が安息日なのです。それゆえ土曜日に礼拝を捧げても、日曜日に礼拝を捧げてもどちらでもいいのです。私たちはただイエス・キリストが復活したのが日曜日なので、その日を記念して日曜日を主の日として礼拝を捧げているのです。

律法主義者たちは自分の行いを必ず誇るようになります。私は土曜安息を守っているとか私は食物規定も守っているとか、そのような自分の行いに対する誇りが必ず生じてきます。

しかしパウロは自分がかつて誇っていたそれらの行いについてこう言っています。

[ピリピ人への手紙 3:7]

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

それらの行いは何一つ自分に救いをもたらすことがないからです。何一つ私たちを救うことには役立たないからです。私たちが誇るべきものは何でしょうか?

[ガラテヤ人への手紙 6:14]

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

十字架以外に何かを誇っていないか、いつも心を点検していきたいものです。

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