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陰徳あれば陽報あり

[サムエル記 第一 20:12,13]

ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。

今日の聖書箇所
Iサム20:12〜23

今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。

命を狙われているダビデは親友であるヨナタンに会いに行き,ヨナタンは愛と真実を持ってダビデを助けると誓います。父サウルの真意を探り,それをダビデに伝えると誓うのです。

そしてヨナタンはダビデに,将来も自分たちの家に恵みを施してほしい願うのです。

[サムエル記 第一 20:14,15]

もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。」

これはヨナタンがダビデこそ主に選ばれれた王であることを認め,ダビデが王になっても,自分たちを滅ぼさないでほしいと言っているのです。

ダビデは今,サウル王によっていつ殺されるか分からない状況に追い詰められており,かつてゴリアテを倒した時のような力強い姿はどこにもありません。サウル王という絶対的な権力者に妬まれたダビデは風前の灯火のような状況なのです。

それにも関わらず,ヨナタンはそのダビデに真実を尽くします。ヨナタンにはダビデへの真実な愛と友情があったからです。そしてヨナタンは弱くされ,追い詰められているダビデがやがて王になることを見抜いているのです。ヨナタンには主の御心を悟る霊的な洞察力があり,それがたとえ自分には損になってもそれに従う信仰があったのです。

ヨナタンはその霊的な洞察力によって,ダビデを助けるという主の御心に大きく用いられることになりました。この時,ヨナタンという存在がいなければ,ダビデは殺されてしまっていたでしょう。

そしてまたこの時,ヨナタンがダビデと主の御前で契約を結んだことは後にヨナタンの家に恵みが注がれる道を開くことにもなりました。

この後,ダビデは長い放浪の旅に出ることになりますが,紆余曲折を経てダビデはイスラエルの王となります。そしてサウル王家は滅亡し,ヨナタンも戦死してしまいます。

しかしヨナタンには子どもがいて,ダビデはその子どもに特別な恵みを注ぐことになるのです。古代においては新しい王朝が建てられると,以前の王朝に属するものは根絶やしにされるのが普通でした。

ヨナタンが霊的な洞察力もって主の御心を悟り,ダビデを助けたことは自分の子孫に特別な恵みが注がれるという形で返ってくることになったのです。

聖書には一つの原則があります。それは主に選ばれた者を祝福するなら,その人は祝福され,主に選ばれた者を呪うなら呪われていくという原則です。

サウルは主に選ばれた者ダビデを呪ったゆえに一族が滅び,サウルの息子ヨナタンは主に選ばれた者ダビデを祝福したゆえに,その子孫が祝福されていくことになりました。

イエス様はこのように言われています。

[マタイの福音書 10:41,42]

預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

多くの人は目の前の状況だけを見て,目先の利害損得で動くだけです。しかし霊的な洞察力,霊的な知恵のある人は,そのような利害損得を超えて主に選ばれた人を認め,その人を祝福するという御心を行うことができるようになります。

そして主はそれに対して真実に報いてくださるのです。私たちもそのような霊的な洞察力を祈り求め,主の御心を行うチャンスを逃さないようにしていきたいものです。

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