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一期一会

[サムエル記 第一 20:41,42]

子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。

今日の聖書箇所
Iサム20:35〜42

今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。

ヨナタンはダビデとの約束通りの場所に行き,かねて決めていた方法でダビデに父サウルがダビデを殺す決心をしていることを伝えます。そしてダビデを安全な場所へと逃すのです。

そしてヨナタンとダビデは抱き合って泣いて別れのあいさつを交わします。これがヨナタンとダビデの今生の別となりました。二人は地上では二度と会うことはなく,ダビデは逃亡の旅が始まり,ヨナタンはサウルと共に戦死することになるのです。

ヨナタンはそれを感じ取っていたのかも知れません。それゆえダビデを最善を尽くして愛したのです。それはまたダビデを王に立てるという主の御心に最善を尽くして仕えることでもありました。

そしてそれはヨナタンに永遠に残る霊的な財産を残すこととなりました。私たちもまた愛するチャンスを逃すことのないようにしたいものです。

「一期一会」(いちごいちえ)という言葉があります。これは一生に一回しかないと考えて,そのことに最善を尽くすという意味です。

また内村鑑三先生は「一日一生」と言われました。その日が人生最後の日であるかのように生きるということです。

どれほど大切なことでしょう。私たちの地上の人生には限りがあるのです。そして明日があることは決して確かではないのです。主の日は盗人のように来るのです。

そうであれば今日という一日はどれほど貴重でしょう。今日というチャンスを永遠のために生かして用いることはどれほど大切なことでしょう。愛することができるチャンス,祈ることができるチャンス,礼拝することができるチャンス,主と人々に仕えることができるチャンス,伝道することができるチャンスを逃してはいけません。

今日が最後のチャンスになることもあり得るからです。まさかあの時が最後になるとはという言葉を聞くことがありませんか?あるいはそのような体験をしておられる方もいるでしょう。

私たち夫婦は数年前に九州の大分でのセミナーに参加したことがあります。私が韓国釜山のセミナーに参加してとても感動し,妻にもぜひ聞いてほしいと思い,犠牲を払って参加しました。とても恵まれました。そして次は釜山でのセミナーに夫婦で参加しようと決心していました。

ところがその次の年からコロナが始まり,セミナーは中断してしまったのです。そして昨年,講師であったその牧師先生は天に召されてしまったのです。

まさかあの時が最後になるとは全く思っていませんでした。本当に残念なのですがそれと共に一度でも夫婦でその先生から直接,お話を聞くことができたことはどれほど感謝しても足りない思いなのです。

イエス様は最後の晩餐の時,弟子たちの足を洗い,その愛を余すところなく弟子たちに注がれました。

[ヨハネの福音書 13:1]

さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

ベタニヤのマリアはイエス様の死を予感して,高価なナルドの香油を注いでイエス様に最高の愛を表現しました。

[ヨハネの福音書 12:3]

一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

愛する兄弟姉妹,愛する聖徒の皆さま,主を愛し,人々を愛するチャンスを逃さないようにしましょう。目に見える全てのものは消えてなくなりますが,愛だけは永遠に残るからです。

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