どれだけ自分を捨てられるか

自分を捨てなくてはならない。切実にそう思ったきっかけは、自分を捨てなくては前に進めないことに気付いたからだ。自分に囚われている。自分の在り方を決めすぎている。自分を守りすぎている。自分を大切にしすぎている。自分の意識に囚われている。自分の意識が膨張し過ぎている。自分の意識が膨張しすぎたせいで地に足がついていない。本当に見るべきところから目を背けている。そして、行き詰まっている。

どうすれば、徹底的に自分を捨てられるのかということについてここで考えたい。。


隠す必要があったのか


自分は自分を人に知られたくなかった。自分を暴かれたら、拒絶されると思った。コミュニティからつまはじきにされると思った。本当の自分を知られたらどうなってしまうのか、とても不安だった。しかし、人に本当の自分を見せないと、そもそも信用されないし、相手も自分に対して心を開かない。今まで大事にして隠してきた自分というものは、そんなに立派なものなのだろうか。そして、そもそも隠す必要があったのだろうか。自分を捨てることが出来なかったからこそ、自分は行き詰まっているし、人間関係の問題が自分に重くのしかかったのではないか。どうして、自分を捨てられなかったのか。自分を捨てるというよりかは、自分の意識を捨てると言った方が正確かもしれない。あれこれ考えて、自分の意識が膨れ上がっていった結果、自分の意識にのまれて、本当に大切なことが見えなくなってしまった。今までの自分の在り方には失敗があった。これから改めなくてはいけないのだ。


自分の意識から離れるには

つまり、自分の意識から離れなくてはいけないということになる。どうすればいいか。まず頭のなかを整理していく必要があるだろう。自分はあれこれ思い悩むことで、よく頭のなかを散らかしてしまう。それは大抵、悩む価値もないことが多い。真剣に考える必要があると思うようなことであったとしても、自分の頭のなかであーだこーだ考えて答えが出るようなものは少ない。本当に考えなくてはいけないことを、頭のなかだけでどうにかできると思うこと自体思い上がりなのではないだろうか。だから、思い悩むこと自体が本当に無駄であって、きっとそれは考えることにはならない。考えなくてはいけない問題に対して、本当に解決したいのであれば、少なくとも紙に書くなどして、外に出すという作業をしなければならない。きっと外に出さないと見えてこない。外に出すことをしないで、頭のなかに閉じ込めてしまうと、自分の意識がそれだけ膨張していく。問題・悩みは膨張していくのに、それが具体的にどのようなものなのか、全く自分のなかで自覚できていない。思えば、自分は、自分が解決していくべき問題については、そうやってやり過ごしてきた。

やり過ごしてきただけで、解決はしていなかった。そのツケはやはり今もついて回っているという感じがする。

個人の問題など存在しない

本当の意味で、そういった悩みや問題に向き合うためには、自分を捨てなくてはならない。

そして、周りの人を巻き込んで、ぶつからなくてはならない。あなたの問題はあなただけの問題ではない。そして本来、個人の問題・悩みというものは存在しないのではないかと思う。「個人の問題は、その個人が一人で考えて解決しなくてはならない」という言い方は、実に一般的だと思うが、果たしてそれで、人は救われるのだろうか。成長できるのだろうか。人生に意味を見出せるのだろうか。実際は、個人の問題など存在しないのではないだろうか。

「自分一人にだけ問題がある」と考えるから、人間はおかしくなるのではないか。「お前が悪い」「俺が悪い」そうやって個人の問題に終始させようとすること自体が間違っていないだろうか。つまり共同体としての価値観だ。個人の価値観の話ではない。

あの人の問題も自分の問題だ、そして自分の問題は周りに知ってもらう必要があるというように考えられないか。

なぜなら、問題はひとりでは解決できないからだ。自分ひとりで解決しようとすることは思い上がりであって、自分ひとりで解決できたように考えることも錯覚だ。

個人が尊重されるようになって、一人ひとり自由に意見することが出来るようになった側面もあるが、個人個人が抱えている問題や悩みについても、その個人に終始させるような言い方は乱暴ではないか。個人とはつまり全体であるというふうに考えると、急に目の前の視界がクリアになる感覚があった。これは戦前の軍国主義・全体主義のようなものを言っているのではない。あれは、個人の問題を全体に押し上げるようなものではなかったはずだ。当時の社会は、個人の問題ではないものを、全体の問題として考えるように仕向けられていた。

ここで言いたいのは、社会全体で、それぞれ個人の問題について考えることが出来ないかということだ。今では世の中が全く逆の流れになってはいないか。個人の問題ということが、社会ではないがしろにされている。


僕たちは、個人個人について考えなくてはならない。特に自分に近い個人、つまり隣人について意識を向けなければならない。「汝の隣人を愛せよ」という言葉の意味が少し自分のなかで分かった気がした。そして、それが自分を捨てるための第一歩になるのではないかと思う。


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