理解って、何なんでしょう

自分の理解の遅さをまとめてみたついでに、理解について、自分の考え方もまとめてみようと思います。

あくまで自分の考え方なので、冷やかし程度に扱ってもらって構いません。もし自身の考え方が霧中という方は、そういうのもあるのかぐらいに冷やかしてもらって、思考を固める材料にでもしてもらえたら、幸いです。


自分は理解という『分かっている度数』を、3段界に分けて考えています。認識、把握、理解の順番で、分かっている深度が進んでいきます。
辞書に載っている本来の意味とは違うでしょうが、自分なりの考え方に一番しっくりきた単語がこれらでした。

認識は、それが目に入った段階、気づいた段階だと考えます。
風景や背景の世界から、対象が浮き上がって見えてくるような感じでしょうか。
これができないと、何が起こっているのか、どこが問題なのかが不明です。
見つけるのは難しいですが、1度認識してしまうと、もうそれを無視することは難しいでしょう。この前後だけでも、世界が変わって視えたりする、場合もあったりなかったり。

把握とは、知っていく段階だと思います。
閃きのように認識したモノの外枠や内容が、徐々に鮮明になっていく過程です。この段階は、比較的長い時間を費やします。また、この段階で終わってしまうモノも多いかと思います。

理解できるようになれば、再現したり変化させたり、こちらから手を加えられます。
この点が、把握とは決定的に違うと思うのです。
把握はどこまでも対象を観察しているだけに過ぎません。
理解に至ってはじめて、状況を再現したり、不要な部分を削り取ってみたり、本質を他に移行させるなど、作り変えができます。

しかし、1つの物事の理解まで辿り着いたとしても、終わりはなかったりします。
理解に至ったことで、別に繋がる認識や理解が一層進んでいきますし、更に他へ領域が拡がる感覚を覚えたりします。
大雑把ですが、仕事にしろ勉強にしろ、このような段階が何度も繰り返されていくのだと思います。

スタートとなる認識は、意外と難しいと思います。
意識をしていないと、ただ眺めているだけでは、浮き上がってきてくれません。
何かしら助言やヒントが噛み合う場合もありますが、それでも、認識・思考しないことには、浮き上がったものがすぐに溶けてしまいそうです。


さて、これで理解力が高まるかと云えば、そんなわけはありません。
重要なのは、理解についての考え方ではなく、理解について『考えてみること』が重要だと思います。
導き出される考えは人それぞれで、他人の考えを丸写しにしても意味がありません。『考えてみる』という作業に対しての、慣らし運転、ストレッチのようなものです。
そして、これが考えてみるきっかけになってくれたら、それだけで意義は十二分です。


与太話ですから、穴や不足だらけでしょう。
色々と粗探しを考えてみるのも、面白いと思います。

お時間をいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?