教える・教わるというのは、相性の噛み合い部分も重要なのではないだろうか。

昔、講師のダメ出しが全く理解できず、悩んでいた事がありました。
指摘されている部分について、どのように駄目なのか。どのように修正して欲しいのか。色々と、何度も指摘されるのですが、全く理解出来なかったのです。

しかしある時、ふらりと遊ぶに来た先輩も一緒になってダメ出しをしてくれた瞬間、一瞬で得心できた事があります。
何よりも印象に残っているのが、理解できたその瞬間から、それまで不明瞭にしか理解できていなかった、講師からのダメ出しの問題点と修正ポイントが、全て分かるようになったのです。
まるで異国語のように不明だったものが、途端に明瞭に聞き取れる自国語へと変化したのです。
もちろん、講師が言語や説明の仕方を変えたわけではありません。

講師も先輩も、自身なりの説明で同じ内容を指摘していたのに、一方は不明で、一方は明快なのです。


何が違うのかを考えた時、より具体的な指摘をしているのが先輩でした。しかし、これは本当にそうなのでしょうか。
先輩のダメ出しの方が、確かにより具体的に理解できました。ですが、他の人も全員そのように理解できるかと言えば、その確証はないと思うのです。
逆に講師がわを理解できて、先輩がわの指摘では不可解という人もいるかもしれません。

具体的に理解することは重要ですが、理解を起因させる説明内容自体は、個々人の能力次第に依るのかもしれません。

新生活の時期は、何かしらを人に教えたり教わったりする場面が多くなるかと思います。
もし説明を受けても理解できない・或いは理解してくれないと感じたなら、説明内容の相性が存在しているかもしれませんね。
別の人から同じ内容についての説明を受けてみたり、別ベクトルの表現で説明を試みてみると、どこかにブレイクスルーが存在するかもしれません。


万人が理解できる説明が無いように、何でも理解してくれる優秀な人材も存在しないと思います。
どちらかが悪いわけではなく、ただその噛み合いが上手くいっていなだけです。
説明する人も、説明を受ける人も、腑に落ちない場面に出くわしたなら、一旦、少し後方から場面を見直して、再チャレンジしてみるのもいいかもしれません。
互いに、コレぐらいの心構えの方が、下手にストレスを抱えなくて済むと思います。


心構えとは別に、それぞれに必要な能力というものはあるので、それはそれで別の話となるのですが。
理解しているつもりでも、自分に跳ね返ってもくる与太話でした。
お時間をいただき、ありがとうございました。







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