撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ

カッコいい台詞ではありますが、この言葉が適用されるべき相手というのは、一体どのような人になるのでしょうか、というお話です。


戦争でむりやり徴兵された人に対して、そのような言葉を向けるのはあまりにもヒドイのではないか、という意見をみかけたのですが、自分はそれに対して、違和感を覚えました。
そこで、一体何が、どこが居心地が悪いのだろうかと、少し考えてみることにしました。


まず、この台詞は、銃を持つ人間全員に対して、無条件に向けられるべきなのでしょうか。

銃を持つ理由としては、大分して攻撃か防御の2種類になると思います。

攻撃は、相手を積極的に排除する目的です。
強力な武器ですから、当然、人死はでてしまいます。

防御は、相手を近寄らせない役割です。
示威として、相手の攻撃意思を挫くことにもなりますし、もし悪意を実行された場合でも、選択の1つになるでしょう。

もしかしたら他にも考え方があるかもしれませんが、日本に住んでいる以上、その辺りの感性は想像に頼るしかないので、一旦、ここで置いておきます。


この2つの分類に、カッコいい台詞をそれぞれ照らし合わせると、どうなるものか。

攻撃目的に対しては、たしかに妥当ではないかと思われます。
相手は一方的に排除されるべしというのは、あまりにも身勝手な暴論でしょう。ただ、現実には、そのような考え方が横たわっていそうですが。

では、防御目的の場合はどうでしょうか。
防御ですから、当然、先に手を出すのは違うと思います。実銃を向けられた場面に限らず、切羽詰められてしまう場合なども、攻撃を受けていると捉えられると思います。
攻撃を受けている人間に対して、撃っていいのは云々というのは、なんだか話が噛み合いません。むしろ、受けている側が云うのであれば、盛り上がるシーンになるでしょう。

となれば、この台詞は攻撃目的で銃を手にしている人間に対した場合にのみ、ようやく成立すると考えていいかと思います。


では、自分が違和感を覚えた、徴兵された人相手の場合を考えてみます。

戦争ですから、攻め入る側、攻められる側が発生します。
互いが同時に攻め合ったということは、多分ないのではないでしょうか。
戦争史に詳しくはないので、もしかしたらそんな例もあるかもしれませんが、一旦、そこは保留にして考えていきます。

先程の分類を照らし合わせるなら、攻め入る側が攻撃目的で構わなないでしょう。

余談的ですが、攻め入る原因を作ったのは相手の方だ、という場合はままあるでしょう。が、そこまでなると、銃を撃つ云々という話だけでは済まなくなってしまいました。
政治や環境状況などなど、あまりにも別要素が多く、別の話になってしまいます。

さて、攻め入るのであれば、撃たれる覚悟をするのは、至極当然なのでしょうか。
上の人間だけでなく、現場の兵士も全員がやる気満々で攻め入るのであれば、確かにそうかもしれません。相手を害することが目的なのですから、当然反抗されます。この場合は、成立すると考えていいでしょう。

しかし、全員が殺る気満々というのは、流石に狂っています。
現実的ではないですが、そんな世の中にならないことを願います。

強制徴兵で嫌々引っ張られた人も、当然いるはずです。
無理やり最前線に送り込まれ、否が応でも殺し合わなくてはいけない。
そのような人にならば、撃つ覚悟云々は、あまりにも酷な話です。

自分が見かけた意見は、このような人たちを指しているのに、間違いないでしょう。


確かに、そんな極論を押しつけるのは間違っています。

ですが、この場合は、そもそもで押しつける相手を間違えていないでしょうか。

自身も撃たれる覚悟を持って銃を持てというのは、明白に相手を害する目的を持った人間に対して向けられた言葉でした。
それが、背格好の似た別人に対しても向けられており、これはおかしな話ではないか、と云うのですから、当然おかしいはずです。

一部に対してのみ適用される言葉を、全体に適用しようとしているのだから、おかしな話にもなりますし、自分も違和感を覚えたのでしょう。

因みに、前提の話が徴兵された人に対してなので、特に触れていませんでしたが、職業軍人や傭兵業の方なると、それはまた別の職業観念の話になると思われます。


とまぁこのように、気持ち悪く感じた部分を、自分なりに解きほぐせたというだけの与太話でした。
こういうのは人によって、別の考察になると思うので、そういうのを読むのも、また面白いかもしれません。

お時間をいただき、ありがとうございました。

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