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みけこの散歩19(紫陽花を探したこと)


紫陽花は、ガクアジサイの方が好きだ。
花の中央の線香花火が弾けたみたいな、星が飛んだみたいな、パステルなキラキラはいつまでも眺めていたくなる。

花の寺と呼ばれている、奈良の長谷寺に紫陽花を見に行った。
以前、訪れたことがある鎌倉の長谷寺は地植えの見事な紫陽花がたくさんあったが、こちらはものすごい種類の名も知らない鉢植えの紫陽花が並べてあって、それはそれは色とりどりの華やかさだった。

私はそこに、懐かしいガクアジサイを探しに行ったのだった。

昭和の頃に住んでいた中古の住宅は、小さな土地なのに真ん中に建屋があり、表と裏に庭があるそんな家だった。
今なら考えられないような無駄だらけの建て方の平家は、よくよく考えてみると、垣根と板塀にすっぽりと囲われて、小ぢんまりとした風情のある家だったのかもしれない。

10年ほど住んでいたが、これから子育てしようなんて血気盛んな昔の私は、そんな風情より駐車場代を浮かすために玄関側の土地は、垣根なんか取っ払って車を停めるスペースに、小さな裏庭なんてあまり日当たりが良くない場所は要らないと、利便性と日当たりと広さだけを重視した殺風景な家にしてしまった。


そんな昔の家の少しジメジメとした、いろんな種類の木が勝手に育っているような裏庭にあったのが、こんな感じのガクアジサイだった。
いや、記憶の中のアジサイは、もっと繊細なキラキラとした感じだった。

そのガクアジサイは、水やりもしない、剪定もしないでほったらかしなのに、雨の季節に勝手に綺麗に咲いてくれて、雨上がりの濡れた葉にカタツムリを乗せてキラキラしていた。

咲いてくれていたと今なら思うが、当時の私には勝手に咲いて、いつのまにか花が枯れてしまい存在すら忘れるアジサイだった。

そんな私でも、少しは緑があった方がいいし、全部捨てるのは可哀想だと、家を建て替えるときに、南側の玄関横に小さな植木地帯を作った。
室内で手に負えないくらい育った観葉植物や、垣根にあったクチナシ(ガーデニアが本当の名前らしいがつい昔の呼び方になってしまう)、バラ、サザンカと、園芸が分かる人が見たら卒倒しそうなくらい、とにかく家にあったいろんな植物をごちゃ混ぜに植えた。

そこにガクアジサイも植えたのだが、勝手に育っていたはずのアジサイは、多分次の年には消えていた。
消えたことにも気付かぬうちに何年も経ち、そういえばアジサイはどうした?というぐらい忘れていた。

私にすればイマイチ日の当たらないジメジメした庭の隅っこより、南側に出した方が光合成がいっぱいできて良く育つんじゃないか?などと考えていたのだろう。
しかし、水やりは雨任せの乾いた土地よりも、いつも根から水を吸い取れるようなそんな場所があのアジサイには住み心地がよかったのだった。

よかれと思って、一人暮らしのお爺ちゃんを行き届いた見守りと清潔で何もかもシンプルで、無駄なものがなく自分で何もしなくても食事ができる、洗濯もしなくていい、主婦が見たら極楽じゃないか!と思える部屋に移したとたん、あっという間に死んでしまった。そんなことまで思い出してしまった。

植物にも人にも合った場所、馴染みの場所がある。
側から見れば可哀想に見えるその場所でも、本人たちには生きやすい幸せな場所なんだ。

どんなにめちゃくちゃに見える住処でも見守っていこうか…


寺に咲き乱れるアジサイの花々を見ながら、過ぎた昔を思い出し、つい合理的に事を進めようとする今の私を戒めた。

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