可哀想な人

おおむね可哀想なキャラクターってすごい好きなんだけど、聖人じみて他人に加害しないタイプの優しい人間が好きだから。現実にはそんな人滅多にいないと分かっているし、だからこそキャラクターとして愛でる価値のあるタイプかなと思う。

現実問題、可哀想な人というのは聖人ではなく他人に安易に加害する人なのかなとちょっと考えた。

インターネットは面白い。他人との間にあるはずの当たり前のパーソナルスペースを見失って、当事者意識を勝手に感じて自他の境界が弱い人にお叱りを受けることもある。お叱りっていうか、ヒステリっていうか。
つい先日そういうヒステリっぽい人に殴り掛かられて面食らった。

よく考えなくても分かることだと思うけど、インターネットで出会った相手だとしても、私とあなたの間には当たり前に場所の差があり、立場の差があり、年齢の差があり、境遇の差があり、例えば電車の中で腹立つ奴とすれ違ったとしても『他人』である以上はなにか腹立たしいことがあったとしても面倒ごとにならないように見て見ぬふりか総スルーをするのが大概の人間だと思う。

それが、文字媒体しか感じられないインターネットでは、その意識が欠落してしまって、通りかかった他人の首根っこ掴んで殴りかかることができてしまう人もいる。

私はやらないけど。だって、掴みかかった相手がめちゃくちゃ金持ちだったり、やばい人だったりしたらどうするんだよ。殴り掛かった後に後悔するのってめちゃくちゃかっこ悪いじゃない。
道ですれ違って肩ぶつかったとして、その相手に誰彼構わずガン飛ばして掴みかかるだろうか。考えてみてほしい。腹が立ったとしても、たいていの人はそんなことにいちいち構っている暇はない。
そんなことするのは古典的なチンピラくらいしか思いつかない。

そういう、言うなれば「当たり前のこと」に想像の及ばない、短絡的な知能の低さ。
自他の境界づけの弱さ。
憤りを感じたとしても、相手に掴みかかる前に見なかったことにできない感情制御の稚拙さ、幼稚さ。
そして自分から非を認めて謝ることができない弱さ。

それをびっくりするくらい目の前で見てしまって、ああ可哀想な人だなあと思った。

ていうか、いちいち突っかかってないで自分の快適なインターネットライフになるように気に食わない相手は見なかったことにするのがお互いのためなのでは?と普通に思いました。
私は少しでも気に入らないアカウントは全部ブロックするし、自分の快適なタイムライン構築のためにそれくらいの手間は惜しまない。
人に憎しみをぶつけている時間、無駄過ぎない?
私の推しも多分こう言う気がする。
「相手のことを変えようだなんて、傲慢。時間の無駄。」
私は推しのこういう合理的で情を挟まないマインドセットが好きなんだなとも思わされた。
そういう意味では、この出来事も推しのような効率厨マインドを学ぶ一助になったのかもしれない。

それにしてもびっくりした。そりゃ急に知らん奴から首根っこ掴まれたらびっくりするよね。掴まれた側としては、何か溜飲の下がることよあれと願うほかない。
可哀想な誰かさんがお弁当の箸忘れますように。水筒持って帰るの忘れますように。スマホのバッテリー速攻で切れますように。足の小指を角にぶつけますように。目の前で電車がいなくなりますように。
誰かさんのために小さい不幸がたくさんありますようにと書こうとしたけど、小さな不幸のバリエーションも大して出来なかった。

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