見出し画像

1995年1月17日朝、サークルの仲間と雑魚寝した部屋で、震度4の地震に起こされた。テレビをつけて驚いた。高速道路が倒れていた。

その春、私は自転車をかついで台湾一周の旅に出ていた。ある台北の日本人宿に泊まった時、彼女と出会った。北京語を丁寧に話す彼女は、明るく楽しく、同世代ということもあって、すぐに打ち解け、屋台めぐりのデートに誘う。ある屋台に設けられたカウンターに座って飲みながら話していた時だった。

彼女はぽつりと言った。

「あたしね、逃げてきたんだ」


友達が6人も死んじゃってさ


神戸外国語大学の学生だった。彼女は多くの仲間を失って、どうしても、日本にいられなくなったのだった。

空港から飛行機が離陸し、台北の街が遠ざかっていく。その雑踏の中で彼女が生きていることを思うと涙が出た。

この時、神戸にいこう、と思った。

三月のまだ冷たい六甲おろしが吹くJR鷹取駅のホームに立ち、焼け野原になった長田の町を呆然と眺めていた。

それから足掛け二年、カトリックたかとり教会に住み込み、ボランティアとして被災地、仮設住宅をめぐる日々を送ることになる。
不思議であるが、思い出すのは、悲惨さよりも、人々の助け合いの姿と「笑顔」だった。とりわけ野田北部の町の人々の明るさには救われた。関西のノリで「きわどい」冗談を言って我々ボランティアを笑わせた。

床屋のKさんはたまに教会に来て、無料で我々ボランティアの散髪をしてくれた。散髪しながらいつもの調子で笑わせてくれる。
あとで聞いたのだが、Kさんの床屋だった家は全壊。大切な一人娘を失っていた。

14才だったという。

数多くの経験をした2年だったが助け合いの気持ちと「笑顔」こそ、被災者の方々からいただいた大切なギフトだったのだと今は思う。

年明けから辛いニュースが続く。この一年、いろいろなことがあるだろう。ただ「笑顔」だけは忘れないでいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?