見出し画像

何にこだわる?

勝ち負けにこだわる人、損得にこだわる人、真偽にこだわる人、正邪にこだわる人、いろいろだと思うが、自分と違う価値観の人とどう折り合いをつけるかは難しい問題である。

また、その対象によってもこだわる基準は異なったりする。

この基準というのは、後天的か、先天的かと問われればこれまた難しい。

ただ、何にしろ、私たちはこの基準により、いろんなもの、ことを選んだり選ばなかったりする。

何かを選択するときに、選ばなかった未来を想像してることは稀である。大抵はこうしようと、選んだもの、のことで頭がいっぱいである。

この、選ぶという行為はあらゆる場面で直面する。選んだら選ばなかった方には未練を残さないことが肝要である。

私たち日本人は、この 選ぶ という行為が苦手な国民であったりする。常に唯一の方法を探して、これしかないという確信が得られないと、いつまでも悩んだり、先延ばししたりする。

いい例が結婚や出産である。晩婚化は各国共通の現象だが、結婚すること、出産することに明確に答えを持っている人は、日本では稀で、みんながするから、みんながしないから、で決めているようである。

結婚に意味がある、意味がない、出産に意義がある、意義がない、そういう根本的な議論がなされないまま、ただ何となく、結婚したりしなかったりする。何となく、というのを英訳すると何という言葉になるかわからないけれど、きっと、直訳はないと思う。メイビーでは何となく意味が違う。

私自身のことを振り返ってみると、やはり、結婚に漠然とした憧れ、子供のいる生活に漠然とした楽しみを持っていたが、契約としての結婚という概念は薄かったし、一人の人間をこの世に生み出すことにも、その影響などは考えもしなかった。

何故なんだろう、と考えてみても明確な答えはない。

選択の自由がなかった時代は、生まれた瞬間から、身分や将来の職業が決まっていた。今はそれが努力義務になっている。何になろうと基本、かまわない。努力しだいだ。勉強して、賢く、聡くなれば基本、自由だ。結婚に関しても誰を選ぼうが基本自由だ。周りの賛成、反対などはあるだろうが。

私は結婚して、子供をもつという選択をしたが、これに関しては後悔したことはみじんもない。自分の時間をある一定の期間奪われたが、それに関しても、その他にメインでやりたいことなどなかったから、自分では許容範囲だ。

でも、結婚にしても、出産にしても、絶対にこうしたくて、という強い意志があったかというと、微妙である。プロポーズされたから結婚して、妊娠したから出産した、というのが正確なところである。

私はこだわりが少ない人間であるのかもしれない。これは、他の日本人にもいえることかもしれないが。良いものを取り入れようという積極性のみあるだけで、あれもあり、これもあり、が基本姿勢である。

だから、こだわりが強い人というのは、スポイルされがちで、困ったちゃん認定されてしまう。

本来ならばこだわりが強い人こそ世界基準で、日本人が特殊であるのだ。

細部にはもともとこだわるが、もう少し視野を広くして、人生設計にこだわりを持とうとするときに、日本人が世界基準になる日がくるかもしれない。

それほどに、周りをみても日本人ってお人よしで、真面目であるからね。も少し、自信を持ってもいいかもしれない。

幸せにする、幸せになる自信がないから、結婚しないという選択をしてる人に、今の時代に生まれて生きているというだけで、充分幸せで、更に、日本で生まれて育ったことはこの上もないラッキーで、その幸運を享受できるのは、有難いことだと、もうすでにあなたは幸せであることに気づいてほしい。

そのうえで、結婚も出産も自由で、そのことをどうとらえるかも自由である、こんな時代はもうないかもしれない。

だからこそ、何にこだわるか、はその人を形作る大きな要素である。

そして、価値観の違うことを認め合い、リスペクトしあう時に、平和な世の中だなと本当に享受しあえるのかもしれない。