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何も思いつかないとき


さて、noteを続けてきて凡そ一か月半。私に関する大概のことは書ききった感がある。今日は別のタイトルで書きだしたのだが、五行で行き詰まり、タイトルを変えて出直してみた。

創作意欲というか、執筆意欲というか、何かを表現したいという欲は尽きることがないと思っていたが、そうでもなかったんだな。枯渇することもある。

それでも、続けることに意味があると信じて書き進める。

でも、そうそうはネタなんて転がっていない。私はあまり自己矛盾のない人だと思うので、精神的葛藤などは少ないのだ。本当はこうしたかったのに、できなかった、そういうことが少ない。大概のことはやりたいと思ったらやってきたし、やりたくないことはしてこなかった。それでも、子育てして、一家の雑事を任されていると、やりたくないのにやらなきゃならないことも多々ある。主にPTAや自治会などの役員がそれだ。ここら辺はだいぶお茶を濁して、できるだけ避けてきた。

大体、素人の集団である一般市民の日本でのレベルの高さはすごくて、働けますやん、収入になりますやん、という才能で溢れていた。私は書くことは好きだけれど、お役に立てそうなのはそれくらいで、パソコンのことも詳しくないし、会議でまとめ上げる能力なんて皆無だし。何の役にも立たない。

私は障がい者の枠の中では、できる人に分類されて、一般の枠では普通の人に分類される。一般の枠は子育て、家事はできて当たり前、さらなる能力に満ちている人たちで、そのなかにいると、だんだんみじめになってくる。できないことにフォーカスを当てられているようで、私は落ち着かなくなる。

それでも、私の障害の厄介な万能感を封じるためには、あえて一般の中に身を置き、等身大の自分というのを常に感じることは、病気を悪化させないために役に立った。

卑下するつもりはないが、私は本当に普通であると思う。普通の定義もあいまいだけど、他の言葉に言い換えるならば、平凡であるということだ。

そこらへんにいる、おばちゃん。

それで充分。

何者にもなれなくても。

ただ、今、生きている、それ以上にうれしいことはない。