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【タイドラマ感想】「The Eclipse」のアーヤンに聞いてほしい話がある。

昨年5月、「Our Skyy2」のトレーラーを見かけて「The Eclipse」を知った。

主演のFirstくんは、私が2番目に観たタイドラマ「Not Me」でヨックを演じていた俳優さんだ。私にとっては、タイ俳優で初めての一目惚れの相手でもある。完走直後に観たタイ版花男こと「F4」で再会を果たし大喜びしたのも束の間、1話から殴られ血を流す姿に消沈したのは忘れられない思い出だ。

もう一人の主演はKhaotungくん。当時の私は、彼の名前こそ知らなかったが、その顔には見覚えがあった。「2gether」のフォン。友人を尊重して柔らかく受け入れる穏やかな態度が好きだった。あの作品の中で、一番印象に残ったキャラクターだ。

そんな彼らがダブル主演の作品があると分かって、私の胸は高まった。どんなお話なんだろう。いや、どんなお話でもいい。私にとって特別な二人がダブル主演だなんて、それだけで観る価値があるというものだ。

当時はテラサに加入していなかったし、他のサブスクでは配信されていなかったため、YouTubeの英語字幕で一気見した。そして泣いた。タイ語もよく分からないし、英語からの理解も若干怪しかった気がするが、それでも私は大泣きした。

「The Eclipse」の何が好きだとか、どこが良いとか。心の中は伝えたいことで溢れているのに、言葉にすると全てが逃げていってしまう。発する言葉のピントがことごとくズレてしまって、思いをうまく表現することができなくなる。唯一はっきりと言えるのは「The Eclipse」を観た私は、ずっと探していたものに出会えたような気がしたということだ。

それから今に至るまで、私の最推しはFirstKhaotungで、一番好きなタイドラマは「The Eclipse」であり続けている。

「The Eclipse」を観るたびに、私は祈るような気持ちになる。窮屈な世界でもがき苦しむアックやアーヤンに「大丈夫だよ、きっと未来は良くなるから。それを信じて今を耐えてほしい」と伝えたくなる。理不尽な世界を壊そうとする少年たちの手がアックに迫ることを考えて「もうやめてくれ」と叫びたくなる。そして、そんなふうに感じる自身の狡さを突きつけられる。

だって私のその想いは、アーヤンが糾弾する“沈黙”に違いない。現状を変えようとせず、声を上げず、自分や人の苦しみを見ないふりして、嵐が過ぎ去ることを待とうとすることだ。理不尽に対し勇気を持って声を上げる人々を、調和を乱すから、誰かを傷つけるからと厭うことだ。それは本当に最悪で、克服しないといけない考え方だと思っているのに、油断するたびに顔を覗かせてくるのだから堪らない。

確かにこれはドラマの話だ。創作を本気にしすぎてもとは思う。けれどアックの揺れる瞳を見ていたらそんなことは言えなくなった。この物語は、Prapt先生の「The Miracle of Teddy Bear」のように比喩的なものだろう。その比喩が指すものを明確に理解することは(日本に生まれ育った私には)難しいとも感じるが、作中で起きているようなことは大きな意味で言えば、日本社会を含む世界全体で起きている出来事に違いない。つまりアーヤンの鋭い言葉は、スッパロー校とアックだけに向けられたものではなく、私のような曖昧な態度の人間に対する誰かの叫びでもあるということだ。

私は「The Eclipse」をこれまでに5周ほどしているが、観るたびに心を抉られて、何ならそれなりに傷ついて、しばらくは結構引きずったりする。それでも観ずにはいられない。奥深い作品であるがゆえに“正しさ”とか“善意”とか“信念”と言われるようなものを、キャラクターそれぞれの視点から見つめることができる。観るたびに違う人の目線で語られる物語が次から次へと主張してきて、キャラクターや作品そのものへの印象がガラリと変わる。だから飽きもせず何周もする。

この人はどうしてこう考えるようになったのだろうと想像して、私はどう思うだろうと考える。現実の社会に住まうさまざまな立場の人々とキャラクターを重ね合わせて、分かり合えないかもしれない人々にも彼らなりの理由と信念があることを再認する。

生きることにつらさを感じる困難な時ほど、私は傷つくのを知りながら、夜ごとに「The Eclipse」を観る。観ながら泣いて、物思いに耽って、それでようやく持ち直す。月並みな言葉だが、固定概念に疑問を提示し、多角的な視点から物事に相対する姿勢を思い出させてくれるこの作品は、意固地になって凝り固まった私の思考にいつも何かしらの“答え”をもたらして、曖昧とした目的意識のようなものさえ芽生えさせてさえくれるのだ。

最近、5周目の「The Eclipse」を観ていて、ふと思ったことがある。私には、アーヤンに聞いてほしい話がある。

私は自分のセクシュアリティのことで、心の底に不安を抱えている。アックたちとは違うカテゴリーのそれを表す言葉があることを知ったのは割と最近のことなのだが、高校生だった頃くらいから違和感はずっと持っていたように思う。なんとなく“そうなのかもしれない”と“違うかもしれない”を行き来していて、普段はそれで平気でも、時々すごく息苦しい。

普通がよかった。「“普通”とかないよ」と言う人もいるが、思い詰めている時には刃に感じる言葉だと思う。普通になりたい。世間一般に普通と言われる普通を実行していける普通の人になりたい。奇跡が起きて、ある日突然普通になれるのを期待している。でも多分なれないことも知っている。ならば受け入れるしかないのだろうけれど、諦めて受け入れたとして、どう生きていけばいいか分からない。そんなことを考えて絶望的な気持ちになる。

「The Eclipse」でアーヤンは、さまざまなプレッシャーから自分の性的指向を受け入れられないアックを安心させるように、彼の頬を大きな手で包み込んで、目を合わせて語りかけていた。別のシーンでは、こうも言う。

「俺はおまえを理解できるよ。初めて自分が“それ”に気づいたとき、難しいことだと思った」

The Eclipse 第10話

そのエピソードを観た翌朝、久しぶりに思い詰めた気持ちを持て余しながら歩いていた私は、物語の序盤に、アーヤンが“権利”について口にしていたことを思い出した。

自分の考えを表明する権利。自分の身体と所有物に対する権利。つまりは人権だ。アーヤンがそれを踏みにじろうとする人々への怒りを込めて語った数々の言葉が、私の中で唐突に、前述のアックとのシーンに結びついた。過去4回、私はあれを恋愛のシーンだと捉えていた。思いやりに満ちていて、陽光に包まれるかのような、相手を尊重する“恋愛の描写”だと。美しくて暖かくて尊いあれは、私のようなタイプの人間には、一生手の届かない高嶺にあるものなのだと。

でも本当にそれだけだろうか。もちろん二人の間には恋愛的な感情がある。それを否定することはどう足掻いても不可能だし、否定する気も当然ない(AkkAyanは大好きなカップルだし末長く幸せになってほしい)。だがアーヤンがこの時に示したものは恋慕の情に留まらないように感じられた。アーヤンという人間の根底にあるのは、アックがアックであることに対する尊重だ。つまり人権の尊重。アックに対してではなくても、(違う伝え方にはなるだろうが)アーヤンはその人がその人自身であることを尊重しただろう。

私はつい数ヶ月前、FirstKhaotungに教えられたはずだった。私の“足りなさ”を一番受け入れられなくて、ひたすらに否定してきたのは自分自身であったということを。その時にもらった自己肯定感の種を心に埋めて、水をやって、育てながら生きているはずなのに、危うく枯らしてしまうところだった。ようやく手に入れたこの自己肯定感は、絶対に失ってはいけないものだと知っているのに。

結局のところ、どれだけ受け入れ難かろうが、自分が自分を受け入れないことには、自己否定にまみれた元の自分に逆戻りするしかない。自己肯定感は死んでしまうし、生きることに耐えて生きるしかなくなってしまう。大きな体を震わせて大粒の涙を溢しながら「分かっているけど、自分には無理だ」「そう簡単に認められない」と嗚咽するアックの苦しみを、自ら抱え込んでしまうことになる。作品の中で葛藤するアックを見ているだけでも苦しくて、号泣している私だというのに。

そこまで理性で分かっていても、素直に諦めることはまだできない。自分を認めることも、まだできない。

普通がよかった。普通になりたい。多分なれない。それが怖い。普通を望みながら普通の人を憎みたくない。これが私の性質であるように、彼らは彼らを生きているだけだ。狡いだなんて思うのはお門違いだと、本当は私も分かっているのに、たまらなくなることがある。

いままで他人にちゃんと話したことのないそんな話を、アーヤンになら話せるような気がした。訥々と泣きながら話しても、彼ならば静かに聞いてくれるような気がした。お茶を濁すようなことは言わずに、この吐露に向き合ってくれる気がした。“難しいもの”を抱く自分にきっと悩んで、理解のある叔父さんに支えられながら自身を認めることができた彼になら、私の直面する難しさも、あるいは受け入れてもらえるんじゃないだろうか。理解してもらえるかはわからない。それでもきっとアーヤンは誰よりもフェアでいてくれる。そんなふうに感じられて、私はすごく安堵した。

だから私はこんな文章を書いている。残念ながら出会うことはできない彼に聞いてもらっているつもりになって。

アーヤン、あなたに聞いてほしいことがある。私の生きるこの世界ではあなたに直接会うことはできないけれど、物語の中だとしても、あなたがいてくれてよかったと、私は心から思っている。

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