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『バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡』読書会 まとめ(4/4)

4 各人が自らの天分において「愛」をもって「協働」する、その象徴としてのキリスト像

 さて、最後に「協働」をめぐるシュタイナーの驚嘆すべきキリスト像とその像の認識によって私たちにもたらされるものについて考察してみたい。

 その像とは、キリスト存在自体が高次の存在たちの「協働」によって成立しているというものである。以下、読者の方々にもその成立の経緯を簡潔にたどっていただき、〈キリスト〉存在に対する正しい注意や畏敬などがご自分に呼び起こされるか試みていただきたい。

ⅰ 二人のイエスから見る高次の存在たちの協働としてのキリスト像

 シュタイナーによればイエスは二人いた。マタイ福音書のイエスとルカ福音書のイエスである。マタイ-イエスはソロモン系で、ツァラトゥストラの魂が受肉した。ルカ-イエスはナータン系で、〈自我に似た魂〉が受肉した。この〈自我に似た魂〉は〈アダムの魂の姉妹魂〉であり、まだ一度も人間に受肉したことはなく、無垢で、あらゆる叡智、あらゆる愛を有していた。この魂は、まだ人間に下降していない前人間超人間と言うべきものである。(ただし、「言葉の厳密な意味では」ただ一度だけ預言的にクリシュナ(のエーテル体)に受肉している。)
 さて、シュタイナーは、ルカ-イエス少年のアストラル体には完全な霊性にまで上昇したブッダ(仏陀)が自らを開示していたと言う。そのことによって、「神の力は高みにおいて開示され、善き意志の人々の下に平和が広がる」という福音書の愛と平和の知らせが鳴り響くのである、と。
 ルカ-イエスが12歳のとき、マタイ-イエスに受肉していたツァラトゥストラの魂が抜け出てルカ-イエスの肉体を所有する。そこで、クリシュナ霊とツァラトゥストラの自我が出会う。アジアの二つの重要な世界観が結びつくことになった、とシュタイナーは言う。
 ルカ-イエスが30歳のとき、ヨルダン川で洗礼を受け、ツァラトゥストラ自我は肉体を去り、(肉体を含む)その覆いの性質のすべてをキリストが所有する。
 その後、パウロがダマスクスへの途上で出会った、復活したイエスが纏う光輝(エーテル体だと筆者は理解する)はクリシュナだとシュタイナーは言う。新約聖書の啓示の中にクリシュナの教えに由来するものが多く見出されるのはそのためである、と。 
 つまり、ここに、自我にツァラトゥストラと〈アダムの魂の姉妹魂〉、アストラル体にブッダ、エーテル体にクリシュナをとり込んだキリスト像ができあがることになる。
 このキリスト像は、高次の存在(人類の師)たちの霊生活の統合、まさに「協働」とも呼べる働きによって成立していると見ることができよう。(そこには、人間の関わりも示唆されている。)
 シュタイナーは、キリスト衝動が充分に準備された肉体においてさえも(人生の最も充実した)30歳からの3年間しか入り込むことができなかったのは、メンシェントゥム〈人間存在、人間性〉の最高の理想・完成を必要としたからだと言う。それゆえ、「キリスト衝動はクリシュナ衝動で覆われることが不可欠だった」のである。

ⅱ キリスト像から見たアントロポゾフィー協会の目指す先

 以上のような驚嘆すべきキリスト像が真に認識できれば、高次の存在たちに倣って私たち人間もお互いに「協働すること」の必要性が強く感じられるのではないだろうか。
 また、このキリスト像を真に認識できるなら、キリスト存在に対して私たち人間は自ら「謙虚」にならざるを得ないであろう。(ここでは、解釈の押しつけはもちろん、ある種の誘導さえも有害であることは充分承知している。紙幅に限りがあるのでこのように表現するしかなかった。)
 実は、「謙虚」についてはクリシュナが自らの姿を顕した際にも言及されている。「…真の自己認識により、人間の本質についてのもっとも奥深い人間及び宇宙の秘密をとらえるとき、私たちは自らの前に最大の宇宙の秘密を置く。それが許されるのは、これを謙虚に敬うときだけである。」(この点がシュタイナーがその運動の一部に傲慢さを見出していた神智学運動とアントロポゾフィーとの違いではないかと筆者は想像する。)

 講義の最終日、シュタイナーはキリスト存在についての真の理解が「慎ましさ(謙虚さ)」をともなって「自己認識」となり、それがアントロポゾフィーの礎となることを願う。一部を抜粋する。
 「この講義で意図されたことをアントロポゾフィーの精神潮流の出発点とみなしてください。
 アントロポゾフィーの運動に参加しようとするとき、その衝動は最高の種類の慎ましさでなくてはなりません。私が人間の魂の問題を飛び越え、神的なものの最高の歩みの中に一挙に入り込もうとするなら、謙虚さは消え去り、高慢や虚栄心が容易に起こるでしょう。そのようなことを回避し、アントロポゾフィー協会を人間のもっとも深い慎ましさの成果としましょう!
 超感覚的なもの、スピリチュアルなものの中の聖なる真実に対する最高の誠実さは、この慎ましさから湧き出してくるでしょう。この慎ましさのもとに神々と神々の叡智を仰ぎ見、人間と人間の叡智を責任もってとらえるとき、つまり、敬虔さをもって神智学に近づき、責任をもってアントロポゾフィーに沈潜することで、神智学が引き起こした不遜さ、虚栄心、功名心が消し去られますように。
 アントロポゾフィーを通して最高の意味で謙虚に真に私たち自身の内を見ることを学び、厳しい自己教育と自己陶冶の中であらゆるマーヤーと錯誤に対して私たちがいかに格闘しなければならないかを見るとき、「アントロポゾフィー」が私たちの上に掲げられますように。
 アントロポゾフィーを通じて自己認識を、自己に対する謙虚さを求めることが大事です。なぜなら、自己認識が最高の誠実さをもって人間の魂の中に確立しているときにのみ真実は花開くからです。そのような真の自己認識、自己教育、自己陶冶からのみ、真実は、神々の宇宙と神々の叡智に対する敬虔さは、芽吹くことができるのです。
 アントロポゾフィー運動の出発点に置いたこの連続講義によって、東洋的な思考が把握した地平を越えて私たちはそれをさらに広げていくことができるのです。私たちの中で自己教育と自己陶冶への意志を強めながら、このことを謙虚に把握しましょう。
 私たちがいつも「アントロポゾフィー」のしるしのもとに集い合い、理念として魂の前に置くことのできる「慎み」という言葉、「自己認識」という言葉を正しく礎とできますように。」

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