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『生きている』という奇跡

人は奇跡的な事でも日常になれば考えなくなってしまう生き物だな・・と感じることがあります。
親が出会って自分が産まれたということ、そして自分が今この瞬間を生きていること。
よくよく考えれば、自分の親が出会って、自分が産まれる確率など計算すれば気が遠くなる数字であることは間違いありません。
間違いなく、奇跡のような出来事です。
更にその親が祖父母から生まれてくる確率は・・・・と考えたら、もう考えるのは嫌になりますね。

私は子供の頃から誕生日を盛大に祝ったことが無いので、誕生日は普段の日常と大きな違いはなく過ごしてきました。
ケーキやプレゼントもそれほど嬉しく感じる年齢ではなくなってしまったのですが、先述の命の繋がりや生まれてきたことへの感謝の気持ちの芽生えと同時に無関心ではいられないなと思うようになりました。

あらゆる記念日を『ただの1日』として過ごしてきた。

誰もが特別である

人は自分一人では生きていませんし、実際生きてい行くことはできません。
産まれた瞬間から親や周囲の大人によって生かされていますし、大人になっても人間社会に生きていると必ず自分が知らないところで誰かの作り出したサービスの恩恵を受けて生活することになります。
『お金』という媒体があるからなのか、その商品が誰がどんな工程を経て自分の手元に届けてくれたのか?という想像力が働かなくなっている気がします。

『サプライチェーン=人の繋がり』

私やあなたの命が特別であるように、今自分が手にしている商品やサービスに関わっている人も等しく特別な存在です。
自分の命の尊さが分かることは大切ですが、それが自分だけに留まってしまうと『自分>他人』みたいな構図が出来上がってしまい、「自分が良ければそれでよし」という都合の良い解釈になってしまうようです。
私やあなたという存在は唯一無二、絶対的な存在です。
『自分=他人』という構図で、お互いが奇跡であることを認め合って生きていきたいと思います。

『俺、最高!』だけではダメ。

他人との比較の中で生きるのをやめる

私もそうですが、『自分は別に普通なんで』『自分は大したことないんで』という言葉を使いがちですね。
先ほどの特別な存在であることを忘れた発言です。
日本人的な謙遜もありますが、本当に自分の事を『大したことない』と思っている人は多いように思います。
過去の経験や周囲からの言葉によって『自分なんて・・・』と思うようになったのだと推測しますが、結局これは他者との比較で勝手に落ち込んだだけです。
あの人は上手くいったのに、自分はできなかった。
あんたは〇〇君みたいにできひんから、やめとき。
あんたにできるわけないやん。
これらの言葉は再三聞いてきた言葉だと思います。
世の中できたかどうかも大切ですが、そこに目を奪われることなく目標に向かって努力を続けていくことの方がより重要だと思います。
何かにチャレンジしなければ、今自分ができることだけしかできない人間になってしまいます。
10年後、20年後、30年後、今の自分のままで良いですか?
今の自分も好きですが、30年後に今の自分よりも365×30年分の成長をした自分であれば、もっと自分が好きになれます。

将来の自分から見て、今の自分は?

その人にはその人にしか過ごせない1分、1時間、1日、365日があります。
産まれてきたことも奇跡であれば、生きているこの瞬間も奇跡、積み重ねてきたことも奇跡です。
その人にしかない出会い、関係性、発想、行動、全てがユニークです。
だから思うんです、『私とあなたは特別だ』と。

産まれてきた意味はきっとある

今までずーっと、『私は普通の人間なので、当たり触わりのない普通の人生を』と思い続けてきました。
自分の命について考えてはいましたが、あくまで家族の範疇くらいです。
しかし、天明茂先生の立命塾で自分の家系や妻の家系を調べたり、一緒に参加したメンバーの家系を見たりしていると『命のバトン』がどれだけ奇跡のような事なのかが分かりました。

ほんと、奇跡ですよ。

そんな奇跡の塊ですから、当然意味もなく誕生していないのですよ我々は。
必ず一人一人に生まれてきた意味があります。
私やあなたが果たすべき役割や成すべきことがあります。
そういった事をすっぽかして生きていく、そして次の世代へと継いでいくには少し勿体ないと思いませんか?
単純に子孫を残していくことだけが産まれた意味なら、別に私達でなくても果たせますよね?

『みつを』の”いのちのバトン”

答えを見つけるまで決して簡単な事ではありませんが、自分で探し始めなければ見つかりません。
誰かが与えてくれるわけでも、空から突然落ちてくる訳でもありません。
一緒に一歩踏み出し、共に探しに行きましょう!

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