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家の原風景

安全基地としての自宅が、どのような空間になっていくかには、記憶の中の原風景が影響しているように思います。居心地の良い空間と生活とを追求した先にどんな世界が待っているのか、家との対話を楽しみながら、日々を暮らしています。

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Yataの家に住む前は、大阪空襲で焼け残った戦前の古民家が立ち並び、セルフビルドのカフェやギャラリー、アングラな雰囲気のなにをやっているのかよくわからないスペース、古い雑居ビルの古着屋さんなど、昼間はとても賑わうが、20時頃になるととたんに真っ暗になってしまう町に住んでいた。

夕方頃になると、ステテコ姿のおじいさんがうろうろしていたり、冬には「ゆきやこんこん🎶」と鳴らしながら灯油を売りにきたりする。梅田まで徒歩10分とは思えない昭和な場所だった。

その町には10年住んだが、出る頃にはその昭和な風景は消えていき、代わりにインスタ映えするお店が立ち並び、部屋着姿でうろうろするのが申し訳ないくらいなおしゃれスポットになるのと同時に、夜中まで開いているお店も増えて、真夜中に人々が騒ぐ声に悩まされるようになっていった。

私が退居した翌年、お借りしていた家の大家さんが亡くなった。もともと、大工の棟梁をされていて、移り住んでしばらくはとてもお元気で、押入れを改装してくださったり、近所に住んでいたので、なにかあるとすぐに来てくださった。屋上の水道管が破裂したときも、道具を片手にやってきて、ささっと修理する姿はものすごくカッコよかった。数年が過ぎた頃、道で出会って挨拶をしても、私のことが認識できなくなり、北部地震で雨漏りが始まったときには、「修理しとくわな」と会うたびに仰るが、そのまま1年がすぎ、苦労して息子さんに連絡を取った。そして、最後の1年ほどは施設に移られた。

その家は、とにかくアクセスが良いので、よく人が泊まりに来た。東京の大学院に通っていた頃、東京の友人や親戚の家に毎回お世話になり、2年間、ホテルに泊まったことがなかった。無事に卒業した後、ご恩送りをしたいと、少し値ははるが、その家を借りたのだった。

最初のうちは直接の友人だけだったのが、そのうち、友人からの紹介等で人が泊まりに来るようになった。来るもの拒まずで生きていたその頃の私はお断りすることは一度もなかったのだが、迷惑な人は一人もいなかった。むしろ、私が知らない世界に生きていて、私の世界をぐぐんと広げてくれた、暮らすように旅する人たち。退居する頃はパンデミックの真っ只中で、海外帰りの友人の隔離場所としても、最後の最後まで大活躍してくれた家。

一軒家だったその家の1階はカフェで、珈琲の焙煎機を導入する際、店主さんはものすごく気を遣ってくれたが、朝、焙煎される珈琲の香りに包まれるのがこのうえない幸せだった愛すべき家。私が退去するときには、そのカフェの店主さんが住むことになり、心から喜んで譲ることができた。

私の母方の祖母は106歳まで生きた。祖母は100歳近くになるまで、コリアンタウンで一人、暮らしていた。20代後半の最初の失業状態の頃、よく、祖母の家に遊びに行った。呼び鈴がないので、玄関で「おばーちゃーん」と叫ぶと、台所の小さな窓が少し開き、私を確認すると、「あら」と笑顔を見せてからドアを開けてくれる。ときどき、顔をみても「どちらさま?」と聞かれることもあったが、家に入ると、「よくきたね」と、いつもハグしてくれた大好きな祖母。

祖母が家にいないときは、だいたいご近所の家にいて、ハルモニたちが集って、タバコの煙モクモクの中、花札をやっていたりする。狭い路地をテクテク歩いて祖母を探しに行くと、お友達との遊びを切り上げて家に帰ってきて食事をふるまってくれる。
小さな3号炊きの炊飯器にはいつも白ご飯がちゃんとあり、黄金色の小さなアルミの鍋にはお味噌のスープがあった。
話をしていても、いつも、途中から朝鮮語に切り替わっていくので、話の内容はよくわからないことが多かったけれど、祖母との時間は楽しかった。

祖母の家にもよく人が滞在していて、ある時、「あの人、だれ?」と聞くと、「知らん」と言われたことがあった。帰宅してから母に話すと、母は困った顔をして、「韓国からきてる行商の人だとおもうよ。誰でも泊めちゃうから、あのおばあさんところは泊まれるって噂になってるみたい。知らない人を泊めないように言っているんだけどね」と言っていた。
当時のコリアンタウンには、おっきな荷物をかついでやってきては、ものを売っている人たちがいた。いまはもうその風景はみられない。

Yataの家が出てきた頃、ゲストハウスにしようかどうかといろいろ思いをめぐらしたこともあった。結局のところ、ゲストハウスにはしていないのだが、あいかわらず、人がやってくる。

不便な場所にあるにも関わらず、関西への出張の合間にわざわざ立ち寄ってくれる友人や仕事がひと段落ついたら保養しにくる友人、子どもたちを引き連れて旅の途中に立ち寄って帰る友人など、繰り返しきてくれる人たちもいれば、なぜか不愉快なことがおこり、最近の私は、困ることは困るとストレートに言動で示すのもあり、二度と来ないであろう人もいる。
私の友人たちはだいたい突然、連絡がくるのだが、仕事があるときは数日帰らず長期の出張もあるので、Yataの家にいつもいるわけではないのだけれど、どこかで見ていたのかと思うくらい、タイミングよくやってくる。一方、まったくタイミングが合わない人もいる。

どうやら、Yataのお家は、一見、ウエルカムだが、私が知らないところで、ものすごく厳しい審査が行われているように、最近、感じて始めている。そして、同時に、守られた中で、今度は人を見る目を育てられているようにも思う。

Yataの家を借りてすぐに、叔母が夢をみていた。いまはあの世にいる祖母と祖父がYataの家を気に入り、もともと仏壇があった場所に2人で鎮座したらしい。
そこは押入れとともに解体する予定にしていた空間だったが、Yataの家に置き去りにされていて、処分しようとして母に止められた大きな木彫りのワシとNY州の山の中にあるお寺の尼僧さんからいただいた仏像を置くことにし、毎朝、読経する場所になった。

その仏像は2cmくらいのごく小さな真鍮製のものだが、「天上天下唯我独尊」のポーズで、ものすごい存在感をはなっている。
「人は誰もが唯一無二の存在である」という仏の教えは、自愛と慈愛について、引き続き、私に考えさせてくれる。

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