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虚ろな繋がり

「幸」という漢字は、「若死にすることなく生きながらえる」「罪を逃れる」ことを表しているらしい。大過なく長寿をまっとうするのが、幸せということだったか。

「幸せ」はかつて、「仕合せ」と書いた。
「仕」とは(尊い)相手につかえるという意味で、他人同士が「つかえ合う」「し合う」ことを喜びとする。それこそが「しあわせ」なのだと、かつての日本人は考えてきた。

互いが相手や周りのために仕え合う、自分が欲しい物を手にするよりも信頼している人に喜んでもらえることを「仕合せ」とする定義は、なにも日本人の専売特許と限らない。
アドラー心理学が最終的に目指す価値観、「共同体感覚」においても、同様の概念が定義づけられている。

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アドラー(1870-1937)はかつて、フロイトとともに心理学を研究したが後に決別し、独自の「個人心理学」を構築した人物だ。
彼の学説はフロイト理論と大きく異なり、たとえば苦しみの原因を「トラウマ」に求めず、そもそも原因を求めることすら否定している。

アドラーによれば、「あなた」は自分の人生に対して「他人」に責任を負わせてはいけない。アイツのせいでこうなったと他人のせいにしても、得るものは何もない。
その場合の「他人」とは、過去の自分も含まれる。
「あのとき自分が決めたから」というのは、過去の自分に責任を負わせて逃げる「人生の嘘」となる。過去は過去、現在を縛るものではないのだ。

逆に、未来から現在を縛るのもいけない。たとえば、「自分はいつか本気を出す」と決断を先のばしにする人がいる(ワシや😅)。
この人は「決断したくない」というホンネを、隠しているに過ぎない。
決断したくないなら、誰かが代わりの決断や、指示してくれるのを待つしかない。それでは、他人によって決められた人生を送るということになる。アナタ、そんなんで生きてるって言えるの?というわけだ。

そういうタイプの人が選択を迫られたら、どっちにしたって後悔するんだから、より後悔しそうな選択肢にするのもアリである。
何もしないで後悔する「人生の嘘」に陥るよりも、その方がどれほどか真っ当である。曲がりなりにも「あなた」はそれを、自分で選択したのだから。
後悔しそうな選択肢であろうとそれら一切を呑み込んで、自分で引き受ける覚悟を持てというわけだ。
後になって間違いに気づいたら進路変更すればいいだけの話であり、大事なのは決して、誰かに責任転嫁しないという心構えである。

面白いのは、アドラーが西洋人らしく「個」を幸せの出発点にしながらも、幸福の到達点を「共同体」に置いている点だ。

あくまでも「個」と「個」の繋がりによって、家族・集団・会社・自治体・国家が形成されていくとするのが、西洋的価値観だろう。
一方で、日本という自然発生的な国家においては、最初に「共同体」があって、その中に僕たち個々が存在しているという感覚じゃなかろうか。

ところが、東洋的「仕合せ」でも西洋的な「共同体感覚」であっても、つまるところは同じ結論となる。
それは「共同体」の必然性であり、「人は一人では生きられない」というシンプルでしごく当たり前な話でしかない。

では、現実はどうか。
「一人では生きられない」事実はそのままに、「共同体感覚」を持てなくなってしまい虚ろな人生を送る人たちが、増えていはしまいか。

詳しいことは知らないが、実の親の殺害に加担した容疑で、31歳の娘が逮捕されたという報道を見た。
どうやら内縁の夫が首謀者となり、その知人が指示役、その指示役の知人が仲介役となり、末端の面識のない2名によって、殺人が実行されたという。

彼らは相関図において繋がっていようと、関係性においても精神的にも個としてはバラバラで、共通するものがあるとすればチンケな「欲」しかない。
殺されてしまったご両親はお気の毒の限りだが、そこからは人間であればあって然るべき、最低限の「共同体感覚」すら見出せない。

殺した側にも殺された側にも、虚ろでカラッポな関係性しか浮かび上がってこないのは、報道のせいとばかり言えないだろう。(明日に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす

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