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私いい人

「ところで、こういうことわざを知ってるか、ジェイミー? 地獄への道は善意で舗装されている」しばらく考え込んでから、父さんは付け加えた。「そして、電気の光で照らされている」

スティーヴン・キング【峯村 利哉 (翻訳)】心霊電流

「地獄への道は善意で舗装されている」
善意や親切心からくる行動でも、逆にトラブルや問題を引き起こす場合がある。
例えばAさんがBさんに同情し、力になろうとしてもBさんがそれを歓迎せず、逆にストレスを与えてしまうことがある。
”善意”からくるアドバイスや干渉が、相手のプライバシーを侵害したり自由を奪ったりもする。
善意も過ぎれば良い関係を悪化させてしまうという、教訓を含んだ言葉だ。

では、善意とは何か。
法律用語としての「善意」は、ある事実を知らないこと・又は信じたことを指す。

例えばAさんが、自分の不動産を本当に売却するつもりはないのに、Bさんと通じBさんに売却したことにして登記を移転した場合は虚偽表示にあたり、AB間の売買契約は無効となる。

しかし、AB間の売買契約が虚偽表示だと知らないCさんがBさんから不動産を購入した場合、Cさんは善意の第三者に当たるため、AさんはCさんに対して当該不動産の所有権を主張できないことになる。

なるほど。一般に僕らが抱く「善意」とは、異なる定義づけがなされているようだ。
日常的な「善意」は、相手を喜ばせたくて、相手によい結果を導こうとして行なう意思を指す。思いやりの気持ちだ。

しかし「ある事実を知らないこと・又は信じたこと」であるところは法律用語と共通していて、「善意」とは常に、後付けの概念となる。
相手のためになにかをしてあげたい、そのために具体的に動くのは心の動き(人によってはクセと言っていいかも知れない)であり、これから「善意」をほどこそうなどとは考えない。
もし意識的に自分の「善意」を履行りこうしようなどと考えるなら、それはむしろ「偽善」に近い。

「これは、あの人のために善意でやるんだ」と思っているなら、それは自分が善意の人、つまり「善人」だと思っていることになる。
むしろ人のために何かをするときは、多少は下心や利害関係、思惑のある方が自然である。

ところが本人は、下心や思惑から行動するのは卑しいことと、無意識に本音を避けてしまう。
「善意の人」にとって、自分の好み・考え方は常に正しい。その正しさから相手を苦しめることがあるなどとは、夢想だにしないはずだ。

当人からしたら「心からの善意」であっても、その行いは相手に対してどこか恩着せがましくなったり、上から目線になったりする。相手は「善意」の押し売りと感じてしまうわけだ。
それでも「善意」の部分は多少とも感じるから(実際にあるから)、相手は文句を言えないまま押し付けられてしまう。
これは双方にとって「偽善」的であり、高じれば関係性が破綻はたんする要因にもなるだろう。

本人が自覚しない下心の中には、「人からよく思われたい」という思いがあるはずだ。
僕など思ったことは口をついて出るタイプで、遠慮ない物言いで過去さまざまな軋轢あつれきを生んできた。
老若男女ろうにゃくなんにょ・社会的階層を問わず、自分と相手は対等という感覚があり、それぞれ異なる意見をもって当然と考えてもいる。

だから何かを決める時、「自分はこう思う、あなたはどうか」の対話になりやすい。多数決は最後の手段として、時間が許す限り徹底的に議論を尽くし、参加者が納得したうえ物事を決するべきという姿勢だ。

ところが自分はそうであっても、たいがいの人は意思表示をしたがらない、あるいは頭の中で整理できていないことに、40過ぎたあたりで遅まきながら気づき始めた。なぜ、そうなるんだろう。
その一要素として、「人からよく思われたい」と背中合わせの、「人から悪く思われたくない」心理が働いているんじゃないか。
(明日に続く)

イラスト hanami🛸|ω・)و


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