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見せかけの尊重

現代いまに近づくほど、「子供の意思を尊重しよう」的な考えを重視する傾向が強くなる。
僕が子供の頃は、「悪いこと」をしたらすぐに頭をはたかれた。はたく方も別に本気で力を入れるわけじゃなく、瞬間「痛てっ」てなる程度に加減している。そこはわきまえたもんだった。

たとえばご近所で小さな子が亡くなり、火葬に向かう車を町内のみんなでお見送りしたことがある。
母親がハンカチを目に当て、嗚咽おえつしている。不思議に思った6歳の僕が「なんで泣いてるの?」と訊けば、間髪入れず後頭部にペチン!と、一発入れられた。

わけもわからず殴れたから、しばらく理不尽に感じる気持ちが消えずにいた。
もちろん一定の年齢に達したあとからは、母親が抱いた感情を理解できるようになっていく。
6歳だった僕と、きわめて年齢としの近い子供が亡くなったのだ。わが身に起こったことと置き換えて、あまりにも深い悲しみに心身が共鳴したんだろう。そんなこともわからないお前は何だ!ということだ。

当時の情景を今も鮮明に思い返せるのは、母親の一発があったからに他ならない。そして彼女が息子にした行為は「しつけ」ではなく、「感情」が先走った結果と判断できる。

では、「子供の意思を尊重しよう」という現代いまの風潮に当てはめれば、母親の感情が先走って我が子をはたく行為は、体罰や虐待と解釈されてしまうのか。まずはなぜ自分が泣いているかを、丁寧に伝えるべきだったと批判の対象にされるのか。
更に説明を尽くしたうえで、「死」の意味をまだ理解できていない子供が「それってアナタの感想ですよね」などと流行はやりのフレーズで返してきたら、「そうよ、あなたには自分の考えを持つ権利があるのよ」と、我が子の成長を喜んでいればいいのか。

いかにも屁理屈っぽいか。
実際には、「あなたの事なんだからあなたが決めて良いのよ。私はあなたの意見を尊重するから」
この言葉を、子供が決断を迫られる事柄や何が正しいか分からず迷っている時に使えば、『意見を尊重してもらえた』ではなく、『選択の責任を丸投げされた…』『見放された…』と受け取ってしまう。
よって、正しいと思う判断基準や情報を十分に提供・提案した上で、最終的な判断は子供に委ねる。それが本来在るべき、『子供の意思を尊重する』ことなんだそうだ。

人に成ると書いて「成人」である。それ以前の子供は「人」にあらず、それを精神的・身体的・性的に成熟するようしつけていくのが大人の役割なんだと定義する人がいて、高校の現代国語の教師だったが、僕は割と得心がいった。
「だからお前らはまだ猿みたいなもんだ、人間じゃないんだ」などと、わりと無頼ぶらいな事を平気で口にする面白い人物だった。

逆説的なようだが、そういう見方をする人ほど、子供の気持ちを尊重しているのが見て取れた。
「子供の意思を尊重しよう」を違う視点でとらえれば、「大人だけの責任じゃないもんねー」の責任回避の姿勢と、見えなくもない。
美辞麗句を並べ立てる人種ほど、言葉と現実の行いが乖離かいりしているもんである。

小学1年生の”ガキ”にそもそも”意思”なんてものが、どれほどあるというのか。あたかも大人と子供を対等のごとく振る舞い、それが正しい教育やしつけだとする欺瞞ぎまん、偽善、建前ばかりが社会に横溢おういつし、子供の頃からの生き辛さを助長してはいないか。

「成人」に達するはるか前から、実際にはありもしない上っ面の”権利”ばかりを与えられ、「成人」として負うべき”義務”は一向に教わらないまま現実の社会に放り込まれるのだ。
「メンヘラ」とやらが増えていくのも、むべなりかなと思う。

ちなみに大手マスコミが、「子供」を「子ども」と表記するようになって久しい。「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ、差別的な印象を与えるというのがその理由だ。
これなんかこじつけも甚だしく、まさに偽善そのものの解釈と言えまいか。もしそんな風にしか「子供」を捉えられないなら、そうとういびつな精神の持ち主と断定してしまおう。

「子供は熟語です。熟字訓というもので、いわば当て字です。コドモという音は万葉のむかしからあります。(中略)江戸時代にコドモに、子供という字をあてたようだ。子供は当て字で二字熟語です。子ども、こ供とは書けない」

矢玉四郎氏(児童文学者)「子ども教信者は目をさましましょう」

昔から伝えられてきた考えや言葉を、その意味も深く考察しないまま変更しようとする(声だけ大きい)一部人間の浅はかさによって、僕たち日本人のアイデンティティは薄められ、誇りも意思も奪われていくんじゃなかろうか。
(明日に続く)


イラスト hanami🛸|ω・)و




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