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妄想への回帰

機会あるごと、ひたすら”妄想”を口にしている。ここで言う”妄想”とは明確な根拠がなく、実現する見込みなどほぼゼロに等しい、自分の頭の中だけの構想である。

「している」と書くとちゃんと意識したうえで発言しているニュアンスだが、そうじゃなくて、しゃべりだすと勝手に言葉があふれ出し、止まらなくなるというのが実態に近い。

普段、用がなければ人といてもそんなにしゃべらないし、苦にもならない。ところが何かをきっかけにいったん思考のかけらが口をついて出ると、その瞬間まで「そんなのオレ考えた事なかったやん」的発言が、次々飛び出す。

こうやってパソコンに向かい、最初の一行を後先考えず、とりあえず打ってみる。
すると、何をテーマにしよう、どういう組み立てで行こうなんて考えなくても、勝手に文章が出来上がっていくことが少なくない。それと似た状態になるのだ。

その中身と言えば、たいがいは貧相なものではあるが、中には「なるほど」と、自分で言っておいて後から自分の発言に共感するといった、時間が置き換えられたような思考の流れがある。
おかしな表現になるが、「オレって、そんなこと思ってたんか」と、言葉にした瞬間に自分が得心しているような感覚だ。

ある意味それは、未熟さの表れだろう。
年齢を問わず成熟した人間であれば、特に公的な立場になるほど自身の発言をわきまえるようになる。
言っていいこと悪いことを明確に区分し、相手に勘違いの余地を与えぬよう、言葉一つひとつに細心の注意を払うはずだ。

それは時に、無味乾燥な言動に終始することになるかもしれない。
保身が過ぎるとそしられ、かえって評価を落とす場合もあるだろう。

何が正解と言い切れはしないものの、目的・目標が明確であれば、敵は極力作らず味方を増やしていった方が、達成の近道にはなるはずだ。

その目的・目標が私利私欲にあるのなら、寄って来るのは同じ欲望を抱く、打算的な人々ばかりになるだろう。残念ながら今の世の中、こちらのかたまりで形成されてしまった感がある。
彼らには社会的影響力があり、利権やそのおこぼれにあずかりたい下部構造は見事なピラミッド型となり、下に行くほどネズミ算的な人数となっていく。

そういう社会をあさましいと断じるのは自由だが、現実は現実として認識したうえ、改めて目的・目標をどう達成するか考えざるを得ない。
彼らを単純に”敵”と捉えたとして、ではその強大な壁に対峙たいじできるだけの”味方”がどこにいるのかとなれば、実に心もとない話だ。
「正義は必ず勝つ」の勧善懲悪かんぜんちょうあくを信じるナイーブな日本人は今や稀少きしょうと思われるが、外部に影響を及ぼさない地平からいくら正論を説いても、「正義」は決して勝つことなく終わる。

だから世の中を変えようなどと大それたことは考えず、さりとて現状に甘んじたり迎合したりするのでもなく、小さくともやれそうなことを、まずはやってみようと思うまでだ。

さりとて、現実を知れば知るほど絶望的な状況にあるとの認識は、深まるばかりである。
今日こんにちに至っては「正義」を見つけることの方が難しく、私利私欲の巨大な権力の集合体によって、民族と文化、倫理や歴史、たみの暮らしまでのことごとくが、崩壊の瀬戸際にある。

「小さくともやれそうなこと」を発想するだけでも、無理な要素の方が多い気がしてくる。
小さな目的・目標であっても、達成するためには現実を見据えた視点だけでなく、妄想の力を借りるしかない。

もたざる者の武器として、妄想力はあなどれない。こちらには社会的地位や影響力がない分、何を言っても許される強みがある。
「嘘も百回言えば真実となる」は、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスの言葉だ。
妄想だって何回も繰り返しているうち「ひょっとして現実になるかも」と、まずは自分自身が信じ始める。自分が信じるようになれば、その発言には説得力が生まれる。

まるで詐欺商法そのものだが、決して人をあざむくわけじゃなく、妄想の輪を広げることで遠い理想が現実に近づく場合だって、あると言いたいのだ。
ダメでもともと、夢見る時間を少しでも多くの人と共有出来たら、それだけで人生にいろどりが生まれるはずだ。

例によって書いているうち、最初の意図と違う方向に飛んでしまった。軌道修正して続けるかどうか、明日考える。今日はこんなところで。

イラスト hanami🛸|ω・)و




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