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アッカンベーされたアガペー

なぜ僕は、毎日死にたくなるような暗い少年期を送っていたのか。
もう少し当時の自分を掘り下げてみると、他人と仲良くしようという意識が希薄だったのに気づく。

小学校に行くと近寄ってくる同性が少数ながらもいて、話しているうち自然と「友達」になる。
「友達」を言葉で定義づけるなど小学生にできるはずもないが、「友達」とはすべてを共有する存在との感覚を、漠然と持っていたようだ。
いわば、一心同体。なにか嬉しいことがあれば共に喜び、しくじれば一緒に叱られるのが当然であるという関係性だ。

ところが実際の「友達」というのは、平然と相手を裏切る。彼らは権力に弱く、自己の打算から関係性をいくらでも変化させる。そういう相手であることが、だんだん分かるようになってくる。

例えば小学校三年生の時、そそのかされて一緒に働いた小さな”悪事”を、発覚するや否や自分たちはあっさり自供し、複数の「友達」のため黙秘をつらぬく僕一人が、気付けば首謀者にされているなんて事があった。
彼らは何故か被害者の立場にすり替わり、クラス一丸となって僕を非難するのだ。思い返しても明確な集団リンチであり、大げさに言うと文化大革命を彷彿ほうふつとさせる。
それを先導したのが担任の男性教師で、のちに三里塚闘争のビラを勤務中にいて、懲戒免職になった人物である。
彼の恐怖支配の手法は毛沢東やスターリン、連合赤軍の内ゲバ等に類似し、僕に限らず、彼の担任するクラスでは学級内リンチが横行した。その恐ろしさの全容を情報として認識するようになるのは、20年近くも後の話だ。

中学、高校と「友達」は常にいたが、僕にとって分かり合える関係性はすでに消滅していた。「親友」と呼べる相手など、「恩師」と共に不在である。
数年前まで大学時代の数名と年賀状のやり取りくらい交わしていたが、今ではそれも絶えている。

少年期より、一人でいることが苦にならない。しかし学校に行けば何らかの関係性を強要されることになり、その「友達」が自分にとって空虚な存在である以上、関わる張り合いも意味も見出せない。不登校とまでならなかったが、学校はよく休むようになった。

海外出張ばかりの父とはほとんど顔を合わせず、親という感覚が持てずにいた。
民生委員の母は他人の面倒は見ても、自分の子育てには淡泊だった。見栄っ張りな所があり、勉強のできる家庭の子と同じ進学塾に通わせようともしたが、出来が悪く勉学に熱のない息子は、3日と続かず辞めてしまった。

尊大そんだいな言い方になるが、”誇り”を持てる大人も友人も、僕の周りに存在していなかった。
父母や教師を、バカにしていたわけではない。ただ僕にとって、彼らが生きる規範となったり心から誇りとすべき存在だったりした記憶が、ないというに過ぎない。

かつて所属した会社で、両親が誰なのか、知らずに成人した男性を雇用したことがある。
箱根の旅館に住み込みで働くようになり、数か月でいなくなってしまった。

大人しく、在職中は真面目に勤務もしていていたが、いつ会っても重心のない、フワフワした感触の30代だった。
言葉に置き換えるのは至難の業だが、暖簾のれんに腕押しとでも言うのか、恰好として言葉のやり取りになってはいても、半透明人間と会話しているような存在の薄さを感じさせる。
辞める時も理由は言わず、その兆候もなく、夜に退職届を残して次の朝にはいなくなっていた。

偏見へんけんと言われればそれまでだが、自分のルーツを持たず(知らず)に生きるとは、なんと拠り所よりどころのない不安定な人生だろうと思ったものだ。

彼の境遇と僕の生育環境の間には、著しい開きがある。
そうでありながら、10代の自分に共通する虚無感を感じずにおれない。
当時の僕が「死にたい」と思ったのは現実に追い詰められたからではなく、存在の虚ろさゆえだった。
実は捉え方一つで、180度逆転した価値に、世界は転換可能であるにも関わらずである。それを思うと、悔しくてならない。

子供にとって、小難しい理屈はいらない。
「この家に生まれてよかった」
「この国に生まれてよかった」
「この時代に生まれてよかった」
「この世界に、人として生まれてよかった」
そう実感できる要素が多少ともあれば、ここまで暗い時期を過ごさずに済んだろう。周囲の環境が、それを僕に教えてくれなかっただけだ。

むしろ担任だった左翼教員に代表されるような、自らの民族の劣等性・犯罪性・醜悪性ばかりをデフォルメし、強調するような空気が、時代を追うごと増して行った気がする。(明日に続く)

イラスト Atelier hanami@はなのす




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