見出し画像

いちご白書はもう二度と

僕の中学生時代って、暗い3年間だった。振り返っても楽しい思い出がほとんどない。
当時「中二病」なんて言葉はなかったが、思春期特有の自意識過剰な思考や言動ばかり目立った自覚が、十分にある。いつもいらいらして、帰宅すると説教めいたことを言う同居の爺さん婆さんに当たり散らしていた。
本気じゃないが1日一度は死にたいと思ったし、逆に自分が死んで無に帰してしまうことを想像すると、怖くてたまらなかった。

それでもまだ1年生の頃は、受験のプレッシャーもなく他の地区からの新しい友人もできて、不快な事ばかりでなかったかもしれない。
学年に関係なく、誰もが音楽を聴いていた。大別すると4グループほどになるだろうか。

僕たち男子の主流は、ビートルズを主軸にした洋楽系。『ソウルドラキュラ』に代表される「奇怪ディスコ」もブームになっていた頃だ。
(上のクラスか、彼らから影響を受けた)ツッパリ系や、少し生活が乱れ気味だった連中は、キャロルやクールスを聴いたりコピーしたりしていた。
その時点で将来のコース(大学まで進学か否か)が、早くも分かれ始めていた感じだ。

女子は圧倒的にベイ・シティ・ローラーズ。1975年リリースの『サタデー・ナイト』は、日本にタータンチェック旋風を巻き起こした。
ローラーズの来日公演では、学校をずる休みし駆けつける追っかけがいた。封建的な空気が多少は残っている時代において、それはかなり思い切った行動だ。
武道館での「ウイ・ウォント・ローラーズ」のチャントを、休み時間に練習したりもしていた。
彼女らのあの異常な熱狂は、一体何だっただろう。ベイ・シティ・ローラーズのブームは3年と持たず消滅し、懐メロでさえも滅多に耳にしなくなっている。

今でも覚えているのは、せんだみつおの『電リク76』というラジオ番組。
ランナウェイズ vs スージー・クアトロとか、キッス vs クイーンとか、人気者2組を並べ、電話リクエスト数で人気を競うという企画である。
この番組のある晩の対決が、ベイ・シティ・ローラーズ vs ビートルズだった。
今の時代なら、集計結果に何の根拠もないことにすぐ思い至ろうが、当時の純な僕らは真剣勝負を疑わず、ひたすらビートルズの勝利を願っていた。
それがなんと最後の1秒、ローラーズが1票差で上回り、ビートルズは敗退したのである。
世の中にはいくら実力があろうと、いかんともしがたい壁のあることを、このとき思い知るのであった。

フォーク組も、それなりにいた。かぐや姫の『神田川』、グレープの『精霊流し』、バンバンの『いちご白書をもう一度』。
ユーミン(バンバンとは結び付かなかった)や拓郎を聴く層はいなかった気がする。当時の我々には、まだ早かったか。

ある日、テレビで『いちご白書』を初放映すると知り、期待に胸ふくらませてブラウン管の前で待機した。
ジョン・レノンの『平和を我等に』を歌う非暴力の学生たちを、当局が催涙ガスを噴射し警棒で殴りつけながら、大学から引きずり出していくクライマックス。
あまりのつまらなさに、あっけにとられた。未成熟な少年の目にも彼らの学生運動が絵空事、「ごっこ」の物語に過ぎないと映ったためだ。
ジョニー・ミッチェルの『サークル・ゲーム』が主題歌なのはいいとして、当人が歌っていないっていうのも、なんだかなぁ。
ある程度、時代背景を理解したいま観れば、違った感想になるんだろうか。やっぱ、バンバンの歌だけでいいか。

みんなLPレコードを学校まで持ってきて、互いに貸し合ってはカセット・テープにコピーしていた。
ところが我が家にはカセットデッキがなく、あるのはモノラルのテープレコーダーのみ。
ピンジャックで繋ぐ録音方法もわからない。
モジュラーステレオ(ミニコンポの前身)のスピーカーを向かい合わせ、中にテレコを置いて四方・上部をLPで囲い、外部の音を遮断したうえ録音ボタンを押すという、実にアクロバットな手法でダビングを始めたのであった。

初期のブルーノートだかプレスティッジだか、エコーの響きを出そうとバスタブで録音した逸話を読んだことがあるが、このやり方でもエコーが効いて、けっこう「いい音」で録れた気になっていた。
すぐに親にステレオ装置を買ってもらい「普通に」ダビングできるようになったが、録音に対する偏執へんしゅうは、この時から始まったのかもしれない。

イラスト hanami🛸|ω・)و

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?