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ながいは必要

最初に買ったディープ・パープルは、『Made in Japan(邦題はライヴ・イン・ジャパン)』に未収録だった『ブラック・ナイト』シングル盤。
もう、カッチョいいのなんのって。学校から帰ると、繰り返し大音量で聴き続ける。とうぜん家の人間からクレームが入り、ヘッドホンに切り替えた。
僕の耳は難聴気味だが、この当時、密閉型ヘッドホンで大音量のハードロックを聴きまくったむくいである。

週末には東京に出向き、秋葉原(石丸電機とか)やお茶の水(ディスクユニオンとか)をハシゴし、さんざん迷ったあげく『メイド・イン・ヨーロッパ』とジェフ・ベック『ワイアード』を、輸入盤で買い求めたのである。
帰宅し、ワクワクしながらレコードに針を落とせば、なんと!ヴォーカルが違うやないかい。
2代目ボーカルのイアン・ギランから3代目デイヴィッド・カヴァデールに、交代した後のライブ盤だったんである。

これには正直、落胆した。何度も聴くうち第3期ディープ・パープルにも馴染んでいったが、ボーカルに関しては圧倒的にイアン・ギランだった。

高校受験を来春に控えた1977年9月。
そのイアン・ギランが、自分のバンドを率いて来日するという。
こら勉強なんかしてる場合じゃおまへんで。しかし元からしていないので、ライブに行ったってなんの影響もないはずであった。
友人の永井君と、チケットを購入する。日本武道館で、4,000円しなかったんじゃないか。

来日記念盤『鋼鉄はがねのロック魂』を事前に購入する。
ディープ・パープル時代と違い、ジャズ・ロックを基盤とした新奇なサウンドだ。
それだって人生初のライブを、憧れのボーカリストで体験できるのである。
予習のつもりで何度も聴き込み、最後はすっかりお気に入りになっていた。
これ、アレンジが洒落しゃれてるし、演奏のレベルも高いのだ。スタジオ・ミュージシャンって職業があるのを、このバンドで初めて知った。

避けて通れない大変な問題は、他にあった。ライブは平日で、授業が終わってからでは開演に間に合わない可能性が高いのである。
永井君とも相談し、当日急にお腹が痛くなるか、バックレる事も検討した。
しかしそれだと帰宅が深夜になるため、家と学校との整合性(アリバイ工作)が取れなくなり、すぐにバレるのは確実である。結局、正直に当日早退の許可をもらうことにした。

3年の担任は進学・受験には最適の人で、その分この申し出には難色を示す。
目標に向けしっかり勉強していた永井君はいいとして、「お前、このままじゃ志望校受からんぞ」と、プレッシャーをかけてくるのである。
ついには親まで巻き込んで、それでは当日までのキミの行いをみて判断しようとなった。授業態度とか、小テストの結果を考慮するとか言うんである。
それでちっとは態度を改めたかというと、まるで記憶にない。たぶん、行っちまえばこっちの勝ちだぜくらい、甘く考えていたはずだ。

最初に行ったライブは、生涯忘れられないそうだ。群集心理に巻き込まれ、我を忘れ狂乱状態になるんじゃないかと、武道館の列に並んで入場を待つ間、本気で心配したりする。永井君にその不安を伝えるも、一笑に付されてしまった。

この日のステージは、素晴らしかった。ライブの模様はすぐにレコード化され、後からVo.2も発売されたから、世評もそれなりに高かったんだろう。
僕は発狂することもなく、東2階席の結構ステージから近い位置で、高度なプロの演奏を堪能した。『Child In Time』『Smoke On The Water』『Woman From Tokyo』といったディープ・パープル時代の曲が聴けたのも嬉しかったが、イアン・ギラン・バンドのオリジナルナンバーのレベルの高さに魅了された。
しばらくしてイアン・ギランはハードロック路線に戻り、再来日を果たす。その時ももちろん足を運んだし、決して悪くはなかったものの、1977年のパフォーマンスには及ばない気がした。

この日の経験に味を占め、レインボー、クイーン、キッス、ブロンディ、ジューダス・プリーストと、矢継ぎ早にコンサート通いを始めることになる。
ちなみに受験勉強だが、僕の態度は相も変わらずで、再三担任から説教され続けだった。
それでもまぁ、拾ってくれる高校もあったし、そっちの人間関係は中学よりも格段に良かった。何とかなるさのお気楽気質は、この当時から変わらない。

永井君とは卒業後、会う機会がないまま半世紀近くも経つ。フラワー・トラベリン・バンド『Make Up』を教えてくれたのが彼だった。あれなんか、日本ロック史に残る名曲だと思う。
永井君、どうしてるかなー。もし会えたならあの日の武道館ライブをさかなに、語り合ってみたいもんである。

イラスト hanami🛸|ω・)و

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